私たちは、気づかぬうちにスマートフォンという巨大なプラットフォームに組み込まれて生きている。そこには無数のアプリ、通知、選択肢があり、あらゆる行為が“スマホの上”に最適化されていく。言語を翻訳するという行為すら、その文脈から逃れられない。
その中にあって、ポケトークのような「翻訳専用端末」が生き延びていることは、ある意味で異様ですらある。
スマホですべて「できてしまう」社会
Google翻訳、Microsoft Translator、そしてAIを用いたチャットツールたち──
翻訳の精度は向上し、操作も洗練され、技術的にはもはや専用端末でなければならない理由は見つけにくい。
しかも、スマホは今やID・決済・行政手続き・交通・医療とすべてがつながる「情報生命体」であり、**“従わざるを得ないインフラ”**となっている。
高齢者、子ども、移民──かつてテクノロジーの「弱者」とされてきた人々でさえ、今ではスマホを避けては生活できない。
このような時代に、あえて翻訳だけのためにもう一台端末を持つ理由はあるのか?
単機能に宿る“やさしさ”と“構え”
それでもなお、ポケトークのような存在には、消費されない**「思想」**が宿る。
ポケトークは、目的が一つしかない。
つまり、使う人に迷わせない。通知も、課金も、SNSの誘導もない。
翻訳のためだけに設計されたこの端末は、言語を超えるための小さな橋となる。
病院で、学校で、工場で──誰のスマホでもない「社会の道具」として、そこにある。
ポケトークが本当に問いかけているのは、
「技術とは、誰のために、何を保証すべきか?」
という原初的な構えである。
「従うか、支えるか」
スマホが「すべてを内包する帝国」になったとき、
単機能デバイスは、その帝国に従属しない、もう一つの構えを提示することができる。
それは抵抗ではなく、補完である。
「英語が話せない人が損をしない社会」
「使いこなせない人が排除されない社会」
「誤訳が許されない現場にこそ、信頼できる道具を」
その一つ一つの願いに、単機能の姿が応答する。
テクノロジーにおける“自由”とは何か
自由とは、選択肢が多いことではない。
“選ばなくていい”という安心を用意することもまた、自由のかたちである。
技術が複雑になるほど、「何を選ぶか」に人は疲弊する。
そのとき、単機能であることは、“選択の不在”という静かな贈与となる。
それがポケトークの構えなのだ。
そして今、問われているのは
この構えを、市場として成立させられるかどうかである。
“やさしさ”や“自由”は、単なる理念にとどまっていては持続しない。
それが使われ、信頼され、買われ、日常のなかに織り込まれていく構造=市場をつくれるかが問われている。
それは製品ではなく、“構え”を売るという挑戦であり、
思想を構造に変える実装である。
スマホという帝国のただなかで、もう一つの自由のかたちを問い直す。
その構えに、ポケトークという端末は、小さくも確かに応えている。