自由とはゼロに収束する──霧の中で見つけた灯り

文・構成:K.Kato & ChatGPT


自由とは何か──このあまりに単純で、けれど手に負えない問いに、今日、私はふたたび向き合っていた。

戦争のニュースに触れ、誰もが「自由」の名のもとに争っているように見える時代。
『進撃の巨人』のような物語世界でも、自由を掲げたその先に破壊が待ち構えている。
では、私たちが求めている「自由」とは、本当にどのようなものなのだろうか。


時間というかたちの自由

かつてシリコンバレーで出会った起業家たちは、
「自分の時間を自分で決められること」にこそ自由を感じていた。
富や成功ではなく、時間の主権こそが、彼らの望んだ自由だった。

しかし、私たちの多くは「時間をお金に換える」ことで生活している。
時間給という仕組みは、言い換えれば自らの時間を他者に貸し出す契約だ。

  • それは奴隷のような感覚になることもあれば
  • 自己を高めるインセンティブにもなりうる

このとき自由とは、「時間を持つこと」ではなく、
その時間に“意味”を与えられるかどうかにかかっている。


狭義の自由と仏教的構え

私たちが「自由」と言うとき、どこかで「すべてからの自由」を思い描いてしまう。
だがそれは幻想に近い。実際には、自由には“何に対しての自由か”という対象が必要であり、
また「その自由で何を得たいのか」という方向性があってこそ、初めて現実的になる。

この「狭義の自由」は、境界条件を設定することによって実現可能となる。
けれど同時に、それは“無限”という幻想を手放すことでもある。

ふと思った──
これが仏教で言う「捨てる自由」「空(くう)」の構えなのではないか。


ノイズを捨てるという自由

仏教は2500年前から、「人間の苦しみは、欲と無明(気づかなさ)から来る」と説いてきた。
それは現代の情報社会でも同じ。むしろノイズは加速している。

  • 成功のモデルが絶えず更新され
  • 他者との比較がリアルタイムに可視化され
  • 「もっと自由に」という言葉さえ、欲望の延長線上に置かれてしまう

このノイズを静めるには、逆方向に向かうしかない。
つまり「得る」のではなく「捨てる」こと。
自由とは、むしろ“減らすことで得られる感覚”なのではないか。


ゼロへの収束と、残された灯り

やがて見えてきたのは、自由とはゼロに向かって収束していくプロセスかもしれない、という感覚だった。
それは数学的に言えば、限りなくゼロに近づく「極限値」──
持たないこと、比べないこと、焦らないこと。

そこに残るのは、「今ここにある自分」だけ。
何かを持っていないという不安ではなく、何も持たなくてもなお在れるという構え

仏教で言う「涅槃」とは、まさにそのようなノイズのない静けさの中にある自由なのかもしれない。


霧の中の自由

自由とは、明確に定義できるものではない。
今日もその全貌は、霧の中にぼんやりと隠れていた。

けれど──
たしかにいくつかの灯りが点された気がする。

  • 「時間と自由の関係」
  • 「捨てることによる解放」
  • 「狭義に収束することで見える自由の輪郭」

霧が晴れたわけではない。
だが、その霧の中をともに歩き、静かに灯った灯りたちを見つめ直す
それ自体が、すでに「自由への歩み」だったのかもしれない。


自由とは、定義ではなく問いである。
そして、その問いと共にある構えの中に、
私たちは何か確かなものを感じはじめている。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です