──法句経第47偈とBeyond Halftimeのあいだで
「花を摘むのに夢中になっている人が、未だ望みを果たさぬうちに、死神が彼を征服する。」
——『法句経』第47偈(中村元訳、岩波文庫)
人生のファーストハーフ、私は「花を摘む」ことに夢中だった。
成果を求め、事業を育て、社会に証を刻む。そうすることが、社会的成功であり、充実した人生だと信じていた。だが今、セカンドハーフに足を踏み入れたこの場所で、私はふと立ち止まり、釈尊の言葉に深く心を揺さぶられた。
“花を摘むうちに、死神に征服される。”
それは、成果にとらわれたまま時を過ごし、未だ望みを果たさぬまま命を終える人間の姿である。
だが、ここで言われている“望み”とは何か。
その問いが、私の中に静かに立ち上がった。
若き日、私の“望み”はわかりやすかった。売上、資金調達、仲間の獲得、会社の成長。
だが、そこにあったのは、**「自己のための執着」**だったように思う。
自分を証明するための戦い。認められたい、負けたくない、恐れを覆い隠したい——そんな思いが、いつしか生きる動機の中心になっていた。
しかし、事業を手放し、次代へバトンを渡す経験を経て、私はその執着が少しずつ変容していくのを感じた。
何かを手放すことでしか見えてこない構え。
何者かになろうとすることをやめたときに、初めて出会う自分自身。
私は今、かつて執着していた“成果”よりも、**「誰のために生きるか」「何を次世代に手渡せるか」**という問いに深く導かれている。
事業を残すことよりも、生き方を伝えること。
構造を築くよりも、構えを示すこと。
それが、私のセカンドハーフにおける静かな志となっている。
ある若者との対話で、「起業とは修行のようなものだ」と語られたことがある。
市場に拒絶され、仲間と衝突し、資金に悩む。だがその一つひとつが、内面の執着を炙り出す修行の場であり、自分という存在の核を問う道だったと気づく。
だからこそ、起業家には「補助線」が必要だ。
それは法句経である必要はない。哲学でも、音楽でも、自然との対話でもいい。
自分自身の内面と向き合い続けるための、何らかの軸。
セカンドハーフで初めて、私は自分の歩みの中に静かな文脈を見いだせるようになった。
若き日に格闘した“執着”は、いまや“共鳴としての関与”へと昇華しつつある。
成果を示すことではなく、関係を育むこと。
証明することではなく、支えること。
そのような構えの中にこそ、人と人とが本当に響き合える「場」が生まれるのではないかと感じている。
だから私はいま、若き挑戦者たちにこう願っている。
「今を全力でStrugglingしてほしい」
自分の限界に向き合い、手探りでもいいから、自分の補助線を見つけてほしい。
そしていつか、あなた自身のセカンドハーフにおいて、
執着が静かに姿を変え、自由な構えとなっていく瞬間に出会ってほしい。
花を摘む人生から、花を咲かせる土を耕す人生へ。
それが、私にとっての「Beyond Halftime」である。