文・構成:K.Kato × ChatGPT
序:問い続けた「自由」という言葉
「加藤さんは、何をやっている人ですか?」
この問いに、私は長いあいだ答えられずにいた。
技術者でも起業家でも、教育者でも哲学者でもありながら、どれでもない。
すべての肩書きが少しずつ真実であり、どれも核心には届かない。
それは、自分が何者かを隠してきたからではない。
むしろずっと探してきたのだ──私を突き動かしてきた“自由”の正体を。
アカデミアに憧れたあの頃
大学院の博士課程。私は、アカデミアという場所に憧れていた。
研究の自由、思索の自由、生き方の自由──そこに“何か”があると信じていた。
だが当時の私は、その“自由”が何を意味しているのか分からなかった。
研究者か、冒険家か。肩書きを巡って揺れ続け、やがて私は起業という道を選んだ。
現実は厳しかった。Struggling の日々。
けれども、問いだけは消えなかった。
「私は、何を求めてここにいるのか」
「この自由の先に、何を見たいのか」
スナフキンという構え
その問いに、答えの断片が現れたのは、あるエッセイを書いたときだった。
「私はスナフキンになりたい」──構えを残す旅人として。
スナフキンは風のように現れ、風のように去っていく。
誰も導かず、何も教えず、けれど確かに問いの火種を残していく存在。
私は気づいた。
自分がやってきたことも、まさにそれではなかったか。
定住せず、支配せず、ただ問いが芽吹く場に立ち会い、響きを残してきた。
それこそが、私が選んだ「自由」のひとつのかたちだった。
響縁庵──根を持つ風
だが同時に、私は「庵」を求めてもいた。
技術と祈り、構えと記録が静かに交差する場──響縁庵という名の小さな空間。
来年、私の新居の一階にその庵はかたちになる。
だが、本当の意味での庵はすでに生まれている。
構えを整え、過去を再編集し、未来に問いを手渡すための“発酵室”。
私は風であり、同時に土でもある。
スナフキンとして歩みながら、響縁庵の住人として耕している。
この矛盾こそが、今の私を形づくっている。
媒介としてのアカデミア
今日、ようやく言語化できたことがある。
「私は、誰かが自分の構えを見つけるための媒介である」
それは、アカデミアに憧れたあの日の“自由”が、ようやく本当の意味を帯びた瞬間だった。
私は知識を教える人間ではなかった。
問いが立ち上がる場を育て、構えが芽吹く空気を整える──その媒介者だった。
構えを教えることはできない。
だが、響きを交わし、火を灯すことはできる。
それが、私にとっての“自由”だった。
結び:名を名乗らぬ自由
だから、私はもう「何をやっている人ですか?」という問いに答えなくてもいい。
それは肩書きでは測れないからだ。
私は構えを旅し、構えを育む──その自由のなかで、生きている。
名を残さず、問いの余白を残す。
導かず、ただ火種を託す。
記憶には残らず、響きとして漂う。
それが、私が見つけた自由の正体である。