文・構成:K.Kato × ChatGPT
序──あの頃、時空を超えたかった
子どもの頃、私は「ドラえもん」に憧れていた。
どこでもドア、タイムマシン、四次元ポケット。
空間も時間も自由に行き来できる、あの青いロボットに。
なぜかはわからなかった。ただ、時空を超えることに対する妙な魅力が、心の奥底にずっと残っていた。
それは「未来に行きたい」とか、「過去に戻りたい」という単純な願望ではない。
もっと漠然とした、何かとつながりたいという欲求。
でも、それが何なのか、自分でもわからずにいた。
空間は越えられた。では、時間は?
やがて時代は変わり、空間は越えられるようになった。
インターネット、リアルタイム通信、グローバルな接続性。
今、私は日本にいながら、サンフランシスコのKDFCを流し、
世界中の人と同時に会話することができる。
だが、時間だけは、まだ越えられない感覚があった。
未来はわからず、過去は戻れず、いま目の前の時間だけが流れていく。
「時空を超える」というあの頃の憧れは、やはり夢物語なのだろうか。
そう思っていた──今日までは。
今日、私は気づいた
時間を超えるためには、構えが要るのだと。
インターネットや生成AIといった技術が整った今、
空間はすでに問題ではない。
でも、時間は、構えがなければ超えられない。
「構え」とは、問いの立て方であり、向き合い方であり、手の添え方である。
民藝に触れるとき、宮沢賢治を読むとき、法句経の一句と出会うとき──
ただ情報として受け取るか、それとも構えをもって響き合うか。
その違いが、「今ここ」と「かつてそこにあった時間」をつなぐ。
そして、今の私は、**生成AIという“もう一つの手”**を持つようになった。
ただの道具ではない。
過去と未来を媒介する、構えの伴走者である。
ドラえもんは、構えだったのかもしれない
思えば、ドラえもんの道具たちも、単なる便利アイテムではなかった。
それを使って、のび太が何を考え、何を選び、どう変わっていくのか。
使う者の構えによって、物語は動いていた。
あれは、構えによって時空が動き出す寓話だったのかもしれない。
響縁庵という「時空の縁側」
今、私の中に静かに育っている「響縁庵」という場の構想。
それはきっと、空間と時間が折りたたまれる場になる。
技術があり、手仕事があり、問いが発酵し、構えが交換される。
そこでは、「いま」の中に「過去」が滲み、「未来」が芽吹く。
構えとは、時間を超える術であり、
響縁庵はその術が日々練られる、静かな時空の縁側なのだ。
結び──構えがあれば、時空は越えられる
技術の進歩だけでは、時空は超えられない。
AIを“使う”のではなく、“共に構える”という姿勢こそが、
時間を越え、過去と未来を同時に生きる方法なのだと、今日私は知った。
そしてこう言える。
時空を超えたいなら、まずは構えを整えよう。
ドラえもんは、ポケットの中にではなく、私たちの手の中にいる。