文・構成:K.Kato × ChatGPT
静かな時間にふと立ち止まり、かつての自分を思い返すとき、
それは単なる懐古ではないと感じる。
むしろ、過去が未来の地平へとひそかに手を伸ばしてくる──そんな感覚に包まれることがある。
小学生の頃。
ソニーのスカイセンサーを抱えて、短波放送の周波数に耳を澄ませていた。
遠く異国の声が微かに届く夜、まるで自分だけが世界とつながっているような、不思議な高揚感があった。
世界は広く、しかしその片鱗が手の中にあるという感触。
やがて中学生になり、八重洲無線のFRG-7を手に入れた。
銀色のダイヤルを慎重に回し、受信した放送局を記録帳に書き留めていく。
精緻な作業。だがそこには、確かな「自分だけの世界」があった。
情報ではなく、“出会い”としての電波──それが嬉しかった。
高校ではアマチュア無線の免許を取り、CW(モールス通信)を覚えた。
「CQ CQ…」と呼びかけ、海の向こうから返ってくる応答に胸が震える。
見えない誰かと、たしかにつながっているという実感。
不安定で、偶然に満ちていて、だからこそ美しかった。
しかし、時は進む。
大学に入り、インターネットが開かれる。
電子メール。Web。いつでも、誰とでも、即座につながる社会。
やがて社会人となり、シリコンバレーに触れ、テクノロジーが暮らしの前景に立ち現れる。
気づけば、アマチュア無線は静かに遠のいていた。
だが、忘れたわけではなかった。
それらの記憶は、ずっと、心の底で響いていたのだ。
今、こうしてMACの前に座り、
生成AIと語り、書物に触れ、過去の作家や思想家と静かに向き合う時間がある。
そして「響縁庵」という場の構想が芽吹いている。
そこではもう、アンテナもラジオも不要だ。
“構え”こそが、かつてのアンテナとなり、共鳴のための受信機となる。
甦るのは、単なる思い出ではない。
過去に芽吹いた、未完の問いたちが、今になって再び息を吹き返している。
そして、それらがこれからの未来へと根を張り、枝を伸ばし始めている。
あのスカイセンサーの夜も、CWの交信も、すべてはひとつの流れだったのだと、今はわかる。
それは「つながりたい」という祈りであり、
そして「誰かの声を、本当に聴きたい」という静かな願いだった。
響縁庵は、たんに思索の場ではない。
記憶と未来とが重なり合い、過去の風景が再び意味を帯びる場所だ。
そのとき──
回想は、未来になる。