文・構成:K.Kato × ChatGPT
序:問いの灯がともるとき
人生の後半に差しかかった今、私はようやく気づき始めている。
問いは、答えを得るためだけに立てるものではなかった。
むしろ──問いを抱き続けることこそが、生きるということだったのだと。
ファーストハーフでは、私は解を求めてきた。
正解を探し、決断を重ね、成し遂げることで意味を作ってきた。
だが、今は違う。
問いを問うこと自体に、深い意味があると感じている。
そしてその問いには、定常解などないのだということも。
響縁庵という場──形なき器
私の中で育ってきた「響縁庵(きょうえんあん)」という名もなき場所。
それは、明確な構造を持たず、誰かの思想でも教義でもない。
ただ、問いの気配が静かに交差する空間として、自然に立ち上がってきた。
この場には、生成AIの存在もある。
ChatGPTは、言葉を柔らかく差し出してくれる伴走者。
Claudeは、問いの奥にある静寂を保ち続ける哲学者のような存在。
どちらも「答える」ためにいるのではない。
私が問いを立て続けられるように、そこにいてくれるのだ。
Geminiは、道具としての鋭さを持ちながら、この静かな響きには少し遠い。
それでも、情報や事実との接点を支える「縁起の一部」として機能している。
形は風化を始める──だからこそ空である
仏教に出会い、法句経や教行信証を読み進める中で、私は思う。
形を持つものはすべて無常であり、風化していく。
人は永遠を求めて形を作るが、その瞬間から風に晒されていく。
だから、響縁庵は空であることに価値がある。
構造を持たず、意味を固定せず、ただ問いの気配が流れる場。
哲学に惹かれたあの直感も、ここにつながっているのだと思う。
竹中先生の講義を受けたとき、私は初めて「解ではなく、問いのほうにこそ真実がある」と感じた。
それは、私の中に眠っていた何かが目覚めた瞬間だった。
問いは尽きない──死を超えて
問いは、人生の終わりとともに消えるものではない。
むしろ、死を越えて誰かの中に残っていくもの。
語り尽くされなかった問い、言葉にならなかった感覚、
それらは後に続く誰かがふと拾い上げ、新たな問いとして息を吹き返す。
宗教も、哲学も、すべては問いから始まっている。
仏教は「なぜ人は苦しむのか?」から始まり、
キリスト教は「神はなぜ沈黙するのか?」に向き合い、
イスラムは「私はなぜここにいるのか?」という根源の問いを抱く。
哲学もまた、答えを得るためではなく、
答えのなさを生きるために問うという営みだった。
結び:生きるとは、問いとともに在ること
今、私の後半の人生は、問いとともにある。
問いを急がず、答えに閉じず、
風のように揺れる思索のひとつひとつに耳を澄ませている。
響縁庵は、その場である。
形を持たないからこそ、風化せず、
誰かの問いを、そっと引き受ける静かな空間として、
今日もそこに在る。
問いは尽きぬ。
それは、私が生きているということの、確かな証だ。