律と慈悲の峠──法句経と教行信証の狭間で

文・構成:K.Kato × ChatGPT(ひねくれ会長)

「自らを灯とし、自らを拠り所とせよ」──法句経のこの言葉は、私の心に深く染み込んでいる。

それはまるで、峠道をひとり登っていく者への、静かな叱咤のようだ。

誰かに頼るな。他を望むな。ただ、自分の行いを正し、自らの眼で道を見つけよ。

その厳しさは、旧約聖書の神の構えにも似ている。

一方で、私のもう片方の手には、親鸞の『教行信証』がある。

「弥陀の本願は、衆生を選ばず」

なんという、やわらかな抱擁。

罪を抱え、迷いの中にある者すら、ただ念仏申す者として迎え入れる構え。

そこには、もはや「自己努力」や「自律的修行」といった構えは影を潜めている。

ただ、「信ずる」という一つの在り方に、すべてをゆだねる勇気がある。

この二つの構え──律と信、父性と母性、原始仏教と大乗仏教──

私はそのどちらかを選ぶのではなく、その狭間に立っていたいのだ。

峠に立ち、片側の谷に「律」の厳しさを、もう片側の谷に「慈悲」の広がりを見る。

日々の営みの中で、私は自らに問う。

「これは、法句経の眼で見た時に、まことといえるか?」

「これは、教行信証の耳で聞いたときに、赦されうるものか?」

問いを二つ持つこと。それが、私の“構え”だ。

どちらかを否定せず、どちらかに寄りすぎず、

ただ、その二つの声が響き合う峠に立つこと。

律の峠に風が吹き、慈悲の谷に光がさす──

そこに立つ私は、まだどこにも到ってはいない。

けれども、声が聞こえる。

「まことを求めるその構えこそが、まことである」と。

それが、私が今日立っている峠の風景だ。

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