文・構成:K.Kato × ChatGPT
きっかけは、ある記事だった。
再生可能エネルギーの分野で、スタートアップたちが革新的な技術を開発し、
それによってエネルギーの未来が国家規模の議論から、個人単位の選択へと縮まっていく──
そんな内容だった。
読んでいるうちに、どこか既視感のようなものが心の奥から立ち上がってきた。
そして、ある記憶が甦った。
──ヨットに住むサンフランシスコのメンターの姿である。
二十年ほど前、彼は大きなビラを手放し、ヨットに移り住んだ。
当時五十五歳。今は七十代半ばを迎えている。
私がその大胆な変化に驚いたとき、彼は静かにこう語った。
「私はこの国のインフラを信じることができない。
ヨットに住めば、今どれだけの水があるか、どれだけの重油が残っているか──
それであとどれくらい生きていけるかが、はっきりとわかる。
自分でマネジメントできる世界に身を置きたいんだ。」
当時の私は、「ヨットに住む」という物理的な選択の奇抜さにばかり目がいっていた。
自由な暮らし。海の生活。インフラから離れた自立性。
けれど、そこに宿っていた“構え”の本質までは、見えていなかった。
しかし今、ようやく彼の言葉の奥にあったもの──
暮らしをミクロな単位にまで縮め、感覚で掌握できる世界を取り戻すこと
その意味が、自分の中で静かに響き始めている。
あのとき、彼は**「生きること」をスケールダウンすることで、自律と自由を両立させる構え**を見せてくれていたのだ。
そして今、私もまた、「次の家」へと向かおうとしている。
それは、理想の家ではない。
完璧な空間でもない。
けれどきっと、新たな構えを試す第一歩になる。
暮らしのすべてを掌握することはできない。
けれど、暮らしのスケールを自らの感覚に引き寄せることはできる。
- 今日、どれだけのエネルギーを使ったか。
- どれだけの水が必要だったか。
- 何を足し、何を削ぎ、何を循環させたのか。
これらの問いに、小さく、静かに向き合うことで、
私はまた、自分の生を耕し直すことができるはずだ。
あの時、ヨットで暮らすという姿を通じて、
彼が私に見せてくれたもの。
それは、自分の暮らしを“我が事”として生きるという構えだった。
その種は、私の中にずっと眠っていた。
そして今、二十年の時を超えて、
ようやく芽を出そうとしている。
結びに:
完全ではない空間に、不完全な私が住む。
けれど、だからこそ見える風景がある。
それが、私にとっての「次の家」──
生きるという営みを、もう一度、手の中に取り戻す場所。