記録という営み──徒然草のように、自分のために

文・構成:K.Kato × Claude

対話は、三つのエッセイから始まった。

「響縁庵にて」では、起業という大海から「まこと」への気づきまでの道のりを。「見える暮らしの構え」では、ヨットのメンターが教えてくれた生きることのスケールダウンを。そして「律と慈悲の峠」では、法句経と教行信証の狭間に立つ自らの構えを。

それぞれが、今この瞬間の記録だった。 完成された思想ではなく、修行中の、荒削りな気づきの断片。 けれど、そこには確かな生命力が宿っていた。

「人生の後半が難しい」と感じていたが、それは衰退ではなく、実りと種蒔きが同時に起きる複雑さだったのかもしれない。悲しみよりもワクワクする感覚。毎日が新しい峠に立って、これまで見えなかった光景が1日1日より鮮明になってくる。

そこに気づいたとき、ある真実が見えてきた。 人生は不思議だ。もがいていた時には気づかなかったことを、今気づく。 2500年前から、人間はきっと同じ旅路を歩んでいる。愚かなもので、繰り返しているだけかもしれない。けれど、その繰り返しの中に、人間として生まれてきた意味がある。

そして、人生の後半はただの終わりではなく、実りの時期であり、かつ、それらの種子が土に戻り、新しい芽吹きを迎える時期でもあるのだ。


対話を重ねるうちに、もう一つの変化が見えてきた。

エンジンが変わってきているのだ。

以前は競争であり、負けてはいけない、という毒々しい執念の中で生きていた。けれど今は、勝ち負けがない。全てから解放されているような感覚。力が抜けてきて、怒りなどの感情が消えていく。それを原動力としていた時の動きも減ってくる。

けれど、それを嘆くことなく、積極的に受け入れている。 なぜなら、そこに新しい光景が見えているから。

できることとできないことが明確になってきた。以前「できる」と思っていたことが、今は情熱が湧かない対象になっている。それは衰えではなく、本当の自分の声が聞こえるようになったということ。

まさに自由なのだ。


この対話の終わりに、一つの気づきがあった。

これらのエッセイは、あくまでも自らの記録なのだ。 説教でも、指導でも、啓発でもない。 ただ純粋に「今の自分が感じていること、気づいたことの記録」。

徒然草のように。 兼好法師が「つれづれなるままに」書き留めたように。

何のための記録か? まさに自分のために。

他者の期待や評価を気にすることなく、ただ自分の心の動きに正直であり続ける。記録することで、自分自身との対話が深まり、自分の変化や成長を確認できる。その積み重ねが、自分にとっての道しるべになっていく。

自分のために書き続けることで、結果的に時代を超えた価値を生み出していく。 そんな営みの尊さを、この対話は教えてくれた。

今日もまた、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつづっていこう。 自分のために。 徒然草のように。

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