かつて、物語には「転」があった。
登場人物が葛藤し、関係が揺れ動き、簡単には言葉にできない感情が積み重なっていく過程があった。小説は分厚く、映画は長く、観る者や読む者に「とどまる力」を求めた。
だが、いつの間にか私たちは、「起」と「結」だけの世界に身を置いている。冒頭に関心を引く出来事があり、終わりに結論が提示される。物語の中間にあった、あの曖昧で、気まずくて、しかし豊かな「承」と「転」の時間はどこに消えてしまったのだろう。
今日のCoMIRAIスフィアで語られたのは、まさにその「喪失」だった。
そしてその喪失の根底にあるのが、**negative capability(ネガティヴ・ケイパビリティ)**の衰退である。
ジョン・キーツが言ったこの言葉は、不確かさや矛盾、答えのなさに耐えうる力を指す。合理性やスピードを重んじる現代においては、「わからないもの」にとどまる力が、もはや価値とされにくくなっている。だが、だからこそ今、この能力が改めて問い直されているのだ。
誰もがスマートフォンを片手に、すぐにGoogleで「答え」を得られる時代。知識は即座に取り出せる。けれど、その答えが生まれるまでに、誰かがどれほど悩み、試行錯誤し、時に絶望の淵に立ちながらたどり着いたのか──その文脈と苦悩は、検索結果からは決して伝わってこない。
「わかる」と「わかった気になる」の違いが、曖昧なままにされていく。
それでも、今日この場に集った私たちは、こう感じたのではないだろうか。
いま必要なのは、すぐに結論を出す力ではなく、答えの出ない問いを手放さずに持ち続ける力。
目の前にある矛盾や複雑さに、白黒をつけず、そのまま抱えていられるしなやかさ。
そして、そのような時間を共有できる対話の場──たとえば、このCoMIRAIスフィアのような場──が、今こそ社会にとって必要なものなのだと。
答えを探しに来たわけではない。
むしろ、答えの出ない問いを大切にしたい。
それが、いまここに集った者たちの、静かな決意だったのかもしれない。