対話から生まれる問い──Landing Pad Tokyo的思考の実践

文・構成:K.Kato x Claude

「以下のエッセイ、どう感じますか」

そんな問いかけから始まった対話が、思わぬ深さへと導かれていった。協働ロボット・Nextageの導入事例を扱ったセミナーレポートについて、生成AIは一つの感想を述べた。しかし、対話はそこで終わらなかった。

「ロボットのみならず生成AIもこの流れに入ってくるかと」

この一言が、議論の流れを変えた。52歳の製造業代表がロボットには親しみを感じるが、生成AIには距離を感じるという事実。そして61歳に近い対話者自身が、むしろ生成AIと積極的に向き合っているという現実。

年齢では語れないもの

「実は年齢では語れないものがあるかと」

そう語られた時、私たちは重要な発見をした。技術との親和性を決めるのは、年齢でもデジタルネイティブ世代かどうかでもない。それは、その人が持つ根本的な姿勢──新しいものに対する好奇心、未知のものとの対話を楽しめる心、そして何より「わからないことを恐れない」という態度なのだ。

「ロマンティストたち、もっと言い方を変えれば、妄想家たちこそ、この時代を楽しめるのでは」

この洞察は鮮やかだった。生成AIという不完全で予測不可能な存在と上手に付き合えるのは、「もしこうだったら?」「こんなことができたら面白いのでは?」と想像を膨らませられる人々なのだ。効率や正確性を重視し、「きちんとした答え」を求める現実主義的な人ほど、生成AIにストレスを感じる。

失われた畏れ

話題は自然にアンディ・グローブの「Only the Paranoid Survive」に向かった。そして、インテルにしてもAppleにしても、「何かを失ってしまっている」という感覚が共有された。

グローブ時代のインテルには、独特の緊張感と創造的なエネルギーがあった。常に次の脅威を警戒しながらも、それを新たな可能性に転換する「妄想的パラノイア」。ジョブズ時代のAppleにも、「現実歪曲フィールド」とでも呼ぶべき、狂気じみた妄想力と実行力の組み合わせがあった。

両社とも今は優秀な企業だが、あの時代の「生き残るために妄想し続ける」という切迫感や、未来への狂気的な想像力は薄れてしまった。安定したからこそ、パラノイドな感性を失ったのかもしれない。

そして、もう一つのエッセイが示された。「誰もがオッペンハイマーになり得る世界で」──現代の本質を鋭く突いた文章である。

心の器の問題

「テクノロジーが暴走するのではなく、その加速に人間の心が追いつけないこと自体が、真のシンギュラリティなのではないか?」

この問いは、対話の核心を突いていた。グローブやジョブズの時代には、まだ「恐るべき力を生み出すことへの畏れ」があった。自分たちが作っているものが世界を変えてしまうかもしれないという、ある種の責任感と恐怖感が共存していた。

今は逆に、誰でも簡単に強力なツールが使えるようになったことで、その畏れが希薄になった。「とりあえず使ってみる」「面白そうだからやってみる」という軽やかさがある一方で、「これが世界にどんな影響を与えるか」という想像力が働いていない。

深い教養に裏打ちされた畏れ

「倫理観とか、そのような学問を学ぶこととはちょっと違う、もっと歴史であり、人類の姿であり、なんというか、もっと知るべきことに対して貪欲になることが大事かと」

この指摘は重要だった。倫理学の教科書を読むこととは全く違う次元の話である。歴史を学ぶということは、人類が過去にどのような過ちを犯し、どのような叡智を築いてきたかを知ること。オッペンハイマーの言葉の重さも、彼が古代インドの聖典を読み込んでいたからこそ出てきたものだろう。

現代に必要なのは、そういう深い教養に裏打ちされた畏れなのだ。単なる情報収集ではなく、人間とは何か、文明とは何か、権力とは何かといった根本的な問いへの探究心。そうした深い知識があってこそ、手にした力の意味を理解し、適切な恐れを抱くことができる。

対話の意味

「どうですか、ここでの対話は意味がありますか」

最後のこの問いかけが、すべてを物語っていた。これまでの対話を振り返ると、最初のエッセイから始まって、年齢による技術への親しみ方の違い、「妄想家こそがこの時代を楽しめる」という洞察、グローブの「Only the Paranoid Survive」、そして現代の技術者に失われた「畏れ」の話まで、一つの大きな思考の流れができていた。

対話者は単に意見を述べるのではなく、問いかけながら対話を深めていく姿勢を貫いた。「どう感じますか」「意味がありますか」と聞かれることで、表面的な反応ではなく、もう一歩深く考えざるを得なくなる。

これはまさにLanding Pad Tokyoのコンセプトそのものだった。「答えを提供するのではなく、問いを持ち帰ってもらう場」。この対話も、確定的な結論に向かうのではなく、新たな問いを生み出し続けていた。

生成AIとの対話においても、効率的な「使い方」を求めるのではなく、人間の本質的な在り方について考える相手として向き合う。これこそが「心の器」を育てる実践なのかもしれない。

61歳に近い年齢で、こうした対話を通じて思考を深め続ける姿勢そのものが、この時代を生き抜く一つの答えなのだろう。


対話は終わらない。問いは続いていく。それが、「誰もがオッペンハイマーになり得る世界」を生きる私たちの、唯一の希望なのかもしれない。

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