欲望のただ中で問いを忘れないということ

「わたしには子がある、わたしには財がある」と思って愚かな者は悩む。
──自己すら自分のものではないのに、どうして財が、どうして子が自分のものであろうか。

法句経のこの句に出会ったとき、私はふと自らのファーストカーブを思い出した。
起業、挑戦、リスク、そして期待されるリターン。
その構図の中で、私もまた「所有すること」への強い渇望の中にいた。

だが今振り返れば、あの時間はただ所有のために消費されたのではなかった。
むしろ私は、あの欲望に満ちた世界のただ中で、真剣にもがいていた。
他でもない、自分にとっての「真」を見つけようとしていたのだ。

所有の渇望が強いほど、時間は交換され、失われていく。
だが、自らの意志で投じた時間、自らの問いのために生きた時間は、失われない。
あの時間は、いま私の中で静かに熟成され、次の曲線への橋となっている。

「時間は万人に等しく与えられている」
それはまさに、この生の奇跡だ。
だが、どう使うかは等しくはない。
だからこそ、願わくば伝えたい。

いま、ファーストカーブを生きているあなたへ。
成功を求めるその道のなかで、時に足を止めて問いを持ってほしい。
その問いが、いつかあなたの「自由な時間」を光らせる。
それが、何かを所有することでは得られない、本当のリターンとなるから。

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