「われは死を創りし者、世界を破壊せし者なり」
かつてオッペンハイマーは、原爆実験の閃光を見て、バガヴァッド・ギーターの一節を口にしたという。
世界の構造を変える「力」に触れた者の、沈黙に近い言葉である。
その言葉は、遠い歴史の一場面のように語られてきた。
だが、いま──あらゆる手のひらの中に、その「閃光」が宿っている。
ドローンは玩具と兵器のあわいを滑り落ち、
AIは誰かの創造を助けながら、誰かを偽る手段にもなり、
情報は一瞬で拡散され、言葉ひとつが戦火の導火線になり得る。
かつては国家が独占していた「破壊的な力」は、
個人の手の中に宿るようになった。
誰もがオッペンハイマーになり得る世界に、私たちは生きている。
──けれど、その「手の中の力」を受け止めるだけの心の器は、果たして育ってきただろうか?
いま、私たちの心を育む環境はあまりに脆く、あまりに急ぎすぎている。
内省の時間は削られ、対話は断片化し、
効率と即応性が美徳とされる社会では、**「立ち止まる力」**が失われてゆく。
オッペンハイマーたちの時代には、まだ「恐れるべき力」を生み出すことに対する畏れがあった。
では、私たちには、いまそれがあるだろうか?
あるいは、
テクノロジーが暴走するのではなく、
その加速に人間の心が追いつけないこと自体が、真のシンギュラリティなのではないか?
人類の長い歴史の中で、
戦争は常に、境界を巡って起こってきた。
資源、宗教、民族、そして「思想」。
けれど今、その境界は、外界ではなく内面にあるのかもしれない。
力を持つことは、もはや特別なことではない。
その力をどう扱うかが、ただ一つの問いとなった。
答えは、まだない。
ただ、私たちはすでに、その問いの只中に生きている。