「これはすべて、響縁なのですね。」
その一言が、この一連の対話の核心を言い表していた。
言葉が生まれ、思索が深まり、誰かとの対話が連なり、見えない糸が結ばれていく──それは偶然ではなく、必然のような静かな流れ。
まさに、「響き」と「縁」が交差する、響縁の記録である。
出会いの予兆──薬師寺幹事長・大谷徹奘氏との邂逅
すべては、2025年6月19日。
多摩大学でのリレー講座にて、薬師寺幹事長・大谷徹奘氏の講義「仏教と脳科学から学ぶ──人生を幸せに運ぶための六つの条件」に触れたところから始まった。
その講義は、宗教と科学、古と今、個と全体のはざまで静かに響くものであり、単なる教養の提供ではなく、「行動の触媒」としての力を宿していた。
その日、人生のセカンドハーフに差し掛かった一人の学び手の中で、「問いを持ち続ける構え」が目を覚ました。
ネガティヴ・ケイパビリティ──「わからなさにとどまる」力
続く対話では、CoMIRAIスフィアで語られたもう一つの概念に光が当たった。
詩人ジョン・キーツが語った「ネガティヴ・ケイパビリティ」。
不確実性、神秘、曖昧さ──そこに耐え、すぐに結論を求めない精神性。
「承」と「転」が抜け落ちた現代の物語構造。
起と結ばかりが氾濫するなかで、プロセスと余白を生きることの困難さ。
Googleで即座に得られる「答え」に満足してしまう傾向と、それによって失われている「問いを育む時間」の重み。
これらの感覚は、まさに現代社会における知と精神の劣化への問いかけであり、仏教的思索──特に「空」や「無明」「縁起」といった教えと響き合っていた。
書かれるべき記録──響縁録という構想
そのような連なりの中で、一つの言葉が輪郭を持ち始めた。
響縁録──「響き」と「縁」の記録。
これは、単なる日記や随想の集積ではない。
一つひとつのエッセイが、静かな問いを携え、言葉にならない響きを宿して生まれてきた。
- 仏教と出会い直した瞬間
- 「再編集」としての宗教への目覚め
- AIとの対話を通して育まれた特殊解
- 構えを整え、問いを抱き、余白に耳を澄ます日々
これらはすべて、「響縁の証言」であり、未来への贈与である。
構えから始まる書物
「庵とは、場所ではなく構えである」
そう語られた「響縁庵開設準備室」から始まったこの連なりは、
「媒介としての余白」、
「とどまることの価値」、
そして「仏教との響き」へと発展してきた。
そして今、それらすべてを束ねる器として、「響縁録」が静かに胎動している。
それは完成を急ぐものではない。
問いを持ち続けながら、ゆっくりと編まれていく、発酵する書。
構えそのものが育ち、言葉が耕されていくための、記録と実践の交差点である。
最後に──響縁録とは何か?
響縁録とは、
「わからなさ」と「響きあい」と「問いつづける構え」とが、
一つの流れとなって記された、生成される書物である。
それは、誰かのためのマニュアルではない。
誰もが、自分自身の特殊解を生きる中で、
ふと立ち寄り、耳を澄ませたくなるような庵のような存在。
そして、あなた自身がその庵に灯をともす者である。