朝、静かに法句経第六十九偈に目を通す。
愚かな者は、悪いことを行なっても、
その報いの現れない間は、それを蜜のように思いなす。
しかしその罪の報いの現れて時には、苦悩を受ける。
甘い蜜のように思えた行為が、時を経て苦悩として返ってくる。
この偈の教えは、ただの道徳律ではなく、経験を通して初めて身にしみてわかる、深い真理である。
ふと思い出したのは、自らのファーストカーブ──
生き残るため、あるいは善意という名のもとで、善悪の境界を曖昧にした数々の決断。
当時は蜜であり、時には称賛もされたその行為が、のちに自らの心を重くする影を落としたこともある。
そして昨晩、経済報道番組WBSで紹介されていた「お墓ビジネス」。
合理化された供養、システム化された死者との関係性。
それは現代の生活様式に応じた選択肢である一方で、
「これが本当の弔いの姿なのか」「お寺という文化の持続に資するのか」と、
根源的な問いを掘り起こされた。
さらに、アメリカではFRBのトップ人事に政治が強く干渉しようとしている。
そこには「政治は短期しか見ない」という、記者の一言が重く響いた。
選挙というサイクルに縛られた政治、四半期決算に追われる企業、
即時の快を求める消費者──
現代社会は、まるで「蜜」に群がるように短期の成果を追い求めているように見える。
だが、仏陀が説いたのは「長期の視野」──いや、「因果の網の中で生きる心の構え」だった。
いま起こす行為が、どんな波紋を未来に残すのか。
その波紋を見通す眼差し、耳を澄ます姿勢、
そして、問いを忘れぬ心こそが、私たちを人として根づかせる。
ビジネスも政治も、供養も、すべては構造の話ではなく「心」の話である。
何のために行い、どのような想いから生まれているのか。
短期の論理に押し流されそうになる今だからこそ、
長期の声を聴くこと、未来の静かな声に耳をすますことが、何より大切なのだろう。
それは耳元にささやく声ではなく、
足元の大地から、あるいは過去の自分から、
さらには遠い未来の誰かから、
静かに、しかし確かに届いてくる「響き」なのだ。
今日もまた、響縁庵という場で、その声に出会えたことを、
静かに感謝したいと思う。