かつて私は、何度もこの問いを耳にしてきた。
「なぜイノベーションがうまくいかないのか」
「なぜ新規事業は立ち上がらないのか」
「どうすれば大企業でもスタートアップ的な動きができるのか」
そして、それに対する答えも、理論も、方法論も、すでに尽くされていることを知っている。
わかっているのだ。
何が問題か。どうすればよかったか。どのように変えればいいのか──すべて。
にもかかわらず、何も動かない。
あるいは、動いているように見えるが、実質は何も変わっていない。
それはもう、「わからないから動けない」のではない。
「わかっているのに、動かない」ことを、黙って選び続けている。
やがて、私は気づいた。
この問いはもう、生きていない。
“死に体の問い”になってしまっている。
誰もが「何かしらのアクションが必要」とは思っている。
「もう手遅れかもしれない」と、内心では気づいている。
しかしその事実を認めたくないがゆえに、
“まだやりようはある”という言葉だけが、場に漂っている。
変わる気はない。
けれど、「変わろうとしているフリ」だけは、続けていたい。
そうして時間は過ぎ、気づけば組織の中で残されていたのは、
退職までの「残りの時間」を数える者たちと、目を伏せる若い人たちだった。
私は思う。
「もう遅い」と、誰かがはっきりと言わなければならない。
「終わった問いだ」と、静かに宣言しなければならない。
それは、失望でも敗北でもない。
むしろ、誠実さの証である。
問いには寿命がある。
そして、問いの終わりを見届ける者がいなければ、
次の問いは自由に芽吹くことができない。
私たちの問いは、終わった。
それを認めることは、つらい。
けれど、若い世代の問いを生かすためには、私たちの問いに幕を引く必要がある。
まだ変われる。
まだ間に合う。
そんな言葉を繰り返して、誰が救われるのだろうか。
終わらせられなかった大人たちの“しがみつき”が、若い人たちの息の根を止めかねないことに、私たちはもっと自覚的であるべきだ。
終われば、また始まる。
それは、自然の摂理であり、思想の原理であり、
何よりも、「新しい問いを持つ者たち」への祈りでもある。
このエッセイは、告発ではない。
諦念でもない。
それは、
“問いの終焉に立ち会う者”としての記録であり、
その静かな終わりを経て、新しい始まりを迎える人たちへの贈り物である。