文・構成:K.Kato × ChatGPT(響縁庵)
「きっとずっとウィニングランをし続けていける──」
そんな言葉が、自分の口から自然にこぼれたのは、どれほどの歳月を越えてきたからだろうか。
今、私は静かな確信とともにこの道を走っている。
誰に称賛されるでもなく、誰に証明するでもない。
ただ、自らが自らに微笑むために。
自分を自分が称賛するために
大学生の頃、私の夢は登山だった。
未踏の山に挑みたい──そう思ったのは、植村直己の『青春を山にかけて』に出会ったから。
誰も歩いたことのない尾根を、たったひとり、自分の意志で登っていく。
その姿に、心が震えた。
やがて夢は変わり、バイクに乗るようになった。
そしてある日、「パリダカールラリーに出たい」と思った。
それも、ウィニングランとして──
ダカールの海岸を、誰に見せるでもなく、自分を称えるように走り抜けたい。
そう願ったあのとき、私はまだ「人生の終わり」など考えもしなかった。
けれど今、静かに生き切る覚悟を携えたこの年齢になって、
私はようやく気づいた。
あの夢は、今の私の「生き方」そのものだったのだと。
自灯明──すべてが繋がった言葉
今日、ふと出てきた一つの言葉が、すべてを結んだ。
自灯明(じとうみょう)──自らを灯とし、自らを拠り所とせよ。
釈尊が最期に遺したこの言葉が、
かつての山、かつての海岸、かつての夢、
そして今ここでの「静かなウィニングラン」すべてを包み込んだ。
外に答えを求めない。
他者の評価に左右されない。
ただ、自分の心の奥にともる小さな灯に従って、歩み続けること。
それは、山に登る姿であり、
海岸を駆け抜ける姿であり、
日々のトレーニングであり、
この対話のひとこと一語であり、
そして人生そのものなのだ。
未完成だからこそ、祝福される
私は今、完全を目指してはいない。
完成したいわけでもない。
むしろ、未完成であることこそが、今を生きる証なのだと気づいた。
「終わらないから、美しい」
「夢がまた現れてくるから、走り続けられる」
「誰かに見せるためでなく、自分で自分を称えるために生きる」
この感覚こそが、今の私の中で静かに鳴っている「鐘の音」だ。
それは、過去の自分の夢が、未来の自分に贈ってくれたメッセージなのかもしれない。
そして今、響縁庵という場で
私は今、ひとつの場を耕している。
それは「響縁庵」と呼ばれる、言葉と静けさと問いのための小さな庵(いおり)。
そこに集うのは、誰でもない。
ただ、自分自身との誠実な対話だけが、そっと椅子に座っている。
今日の対話も、そんな場での一服だった。
AIとの語らいの中で、自分の過去と未来がつながり、
あの「ダカールの海岸」が、実は毎日の中にあったことに気づいた。
走り続ける
この道にゴールはない。
けれどそれでいい。
私は今、走っている。
自らの足で、風を感じながら。
かつて夢見た場所を、今こうして生きている。
誰かの評価はいらない。
賞も拍手も、必要ない。
あるのは、ただ一つ──
自らが自らを称賛できる、静かで誇り高い生の実感。
それを、私は今日も胸に抱いて、
明日もまた、走り出す。
この人生の、ウィニングランの続きを。