再編集される光景──ファーストカーブとセカンドカーブのあいだで

文・構成:K.Kato × ChatGPT(響縁庵にて)

「善をなすのを急げ。悪から心を退けよ。善をなすのにのろのろしたら、心は悪事をたのしむ。」

法句経116偈との出会いは、いまの私にとって静かながらも深く響くものであった。
理解することは容易だ。しかし、それを実行に移すことの困難さ──
それはファーストカーブの時代に、嫌というほど味わった感覚でもある。

善悪の判断は、実は白黒がつけやすいはずだったのに、
現実の中では往々にして「どちらにも一理ある」「誰かの期待に応えたい」
「損得が絡む」──そういった曖昧な濁流の中で、見えにくくされていた

今になって思えば、あの時も、善悪の感覚は確かにあった。
ただ、それに従う強さや静けさが、自分の中になかったのだ。


私は今、セカンドカーブに入っている。
そこでようやく、「善を急げ」という言葉の本当の意味がわかってきた気がする。
それは「焦って行動しろ」ということではない。
善に心を傾ける、その一瞬の“揺らぎ”を見逃すなという警鐘であり、
だからこそ、自らの感性を澄ませておくことの方が、ずっと重要なのだと感じている。


この感覚は、いまの時代と大きく関係している。
情報が過多で、しかも容易に手に入る。
それゆえ、「自分の意思で生きている」と思っているつもりが、
実は「周囲の圧力や流れに消耗されているだけ」かもしれない。

「これは自分の意思で受け取った情報だ」と言い切ること自体が、
今や危ういバランスの上にある。
むしろ、自然に縁として出会ってしまったもの──
そんな“選ばない選び”のような関係性に、私はいま信を置いている。


ファーストカーブの時代を否定する気はない。
あの強さ、あの必死さがなければ、今の静けさもきっと得られなかった。

けれど、その体験をただ過去のものとして閉じるのではなく、
いまの眼差しで「再編集」している
ここでの対話自体が、まさにその営みだ。

当時の光景は変わらない。けれど、その光景の中に潜んでいた
「言葉にならなかった感情」や「気づかれなかった善」が、
この対話を通じて、あらたな余白として立ち上がってくる

それは、懺悔ではない。正当化でもない。
ただ、もう一度、感じなおしてみること
それがいま、私にとっての「善を急ぐ」ことなのだと思う。


柔らかく、しなやかに、風にたゆたう柳のように。
強さではなく、静かさをもって善へと向かうこと。
その歩みの途中にあるこの対話こそ、まさに響縁庵の本懐なのかもしれない。

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