文・構成:K.Kato x Claude
ある対話から始まった。
一篇のエッセイ「終われば、また始まる──問いの終焉に立ち会う者として」を読んで、私たちは語り合った。組織に蔓延する「死に体の問い」について。イノベーション、新規事業、変革──すべて語り尽くされた理論なのに、何も動かない現実について。そして、その背景にある「終わりを認めない」無責任なリーダーシップについて。
やがて話は、この国の姿に及んだ。血税を使った郷愁への投資。過去の栄光にしがみつき続ける構造。若い世代にツケを回し続ける仕組み。
「何か明るい未来は見えてきましたか?」
問われて、私は答えに窮した。システムの変革を期待しても、個人の努力に頼っても、道筋は見えない。そして、より深刻な現実が浮かび上がった。
自助できる力を失っているのです。
長年の依存構造の中で、人々は自分で判断し、自分でリスクを取り、自分で道を切り開く力を削がれてしまった。個人の責任というより、システムが作り出した構造的な問題として。
ならば他力しかない。だが、これまでの他力──政府や大企業への依存──は、まさに現在の閉塞を生み出した元凶でもある。
そこで、全く違う視点が提示された。
法句経と教行信証を読んでいるのです。原始仏教的な自力と大乗仏教的な他力をミックスするために。
原始仏教の厳格な自己責任の教えでは、構造的に自助できない人々が取り残されてしまう。だとすれば、大乗仏教的な他力による救済の道筋を探る必要がある。「自力では救われ得ない衆生への慈悲」として。
そして、一つの直感が示された。
他力の根底は、自然の恵みのようなものではないか。
自然の恵みは、私たちの努力や善行とは無関係に注がれる。太陽は善人にも悪人にも等しく光を与え、雨は功徳のある者にもない者にも等しく降る。それは無条件で、無差別で、自然法爾な働きである。
親鸞の「自然法爾」も、まさにこの自然の摂理のような他力を指していたのではないか。阿弥陀仏の本願力は、人間の計らいを超えた、まるで自然現象のような絶対的な働きとして現れる。
となると、今の異常気象に抗うのではなく、この中でいかに人間が生きるか、生き物が生きるかと考えていく方向かもしれません。
経済システムの破綻、政治の機能不全、社会の閉塞感──これらを「異常事態」として元に戻そうとするのではなく、この新しい条件の中で、どう生きていくかを考える。
自然界では、生き物たちは環境の変化に適応することで生き延びてきた。抗うのではなく、新しい環境に合わせて生存戦略を変える。それは諦めではなく、より深いレベルでの生命力の発揮である。
そして、厳しい環境の中では、必然的に協力が生まれる。
環境の激変の中で、個々が生き延びるためには、協力せざるを得なくなる。
それは計算された利益追求ではなく、生き延びるための本能的な智慧として現れる。困難が人々を結びつけ、孤立していた個人を共同体へと導いていく。
ここに、一つの道筋が見えてきた。
「終わり」を受け入れることから始まる、新しい共生の形である。
まず「死に体の問い」を静かに認識し、自助の力を失った状況を素直に受け入れる。その上で、自然の摂理のような他力への信頼を持ち、環境の激変を新しい条件として受け入れる。そして、その中で自然に生まれる協力・共存への流れを信頼する。
これは、諦観に基づいた希望であり、受容に基づいた行動原理である。
個人の意志で世界を変えようとするのではなく、大きな流れの中で自分の役割を見つけていく。そして同じ状況にある人々と、自然に手を取り合っていく。
まるで、厳しい冬を乗り越えるために動物たちが群れを作るように、生存本能としての共生が生まれる。
これが、現代における「自力では救われ得ない衆生への慈悲」の具体的な姿なのかもしれない。
道はまだ見えていない。だが、方向は定まった。
自然の恵みのような他力を信頼し、新しい環境の中での共生を模索していく。
エッセイの最後の言葉が、新しい意味を帯びて響く。
終われば、また始まる。
それは、自然の摂理であり、思想の原理であり、何よりも、共に生きる者たちへの祈りでもある。