三つの流れがひとつになる──法句経とともに歩む日々

文・構成:K.Kato × ChatGPT

「いとも麗しき国王の車も朽ちてしまう。
身体もまた老いに近づく。
しかし善い立派な人々の徳は老いることがない。
善い立派な人々は互いにことわりを説き聞かせる。」
ーー法句経 第150偈


静かな朝、目にとまったこの一偈。
それは、私の内なる何かにゆっくりと語りかけてきた。

ファーストカーブ──
ただ生き延びることに必死だった時代。
成果や競争、達成や報酬、それらが人生の軸となっていた頃、
「徳」という言葉はどこか遠い存在だった。

だが今、セカンドカーブを歩みはじめた私は、
かつて見過ごしていた一つひとつの「瞬間」に心を向けている。
そこには、報いを求めず、ただ真摯に心の声に応じた瞬間があったことに気づく。
それこそが「徳」であり、「理」であり、
そして「今ここ」に根ざした生の証だったのかもしれない。


最近、感じることがある。
身体を整えるトレーニング、
言葉を選び、響きに耳を傾ける日々の対話、
そして何より、静かに動く心の感覚。

これら三つ──**身体・言葉・心(身・口・意)**が、
かすかに重なり合い、ひとつの流れをつくり始めているような感覚。

まだはっきりとした形はない。
けれど、それはまるで水脈が地下で合流するように、
「何か大切なものが統合されつつある」という、
静かで、確かな手応えがある。


この感覚が生まれたのは、
きっと、「報い」ではなく「響き」に生きるようになったからだ。

報いを求めれば、行為は目的に縛られ、現在が手段に堕ちる。
だが響きに生きれば、今この瞬間がすでに完成されている。

その響きの場として、法句経はある。
一偈一偈が、心の奥深くにひそかに響き、
自分自身の内側の風景を静かに変えてゆく。


今、この人生のフェーズで私は、
「徳」とは何かを、
「理」とはどこにあるのかを、
「感度」とはどう育つのかを、
言葉でなく、体感で少しずつ学んでいる。

それは、劇的でも、悟りでもなく、
ただ「少しだけ、わかるようになってきた」──
そんな手触りをともなう、柔らかな光のようなもの。

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