再会は、響き合う縁の証──十年の時を超えて

十年以上もの年月が流れていた。
かつて共に技術開発に取り組んだお客様──その中心人物が、ふいに私のもとを訪れてくださった。

「どうして私の居場所を知ったのですか?」
心のうちにそんな疑問が浮かぶ前に、あたたかな気配が場を満たしていた。どうやら、ネットの片隅に残された痕跡を手がかりに、時間の奥から探し出してくださったらしい。

その方は、私よりも数歳年上の研究開発者。
再会の場は、初めは近況を語り合う穏やかな時間だった。
が、話しているうちに、次第に過去の光景がよみがえる。
白熱した議論、あの一言で空気が変わった瞬間──

私は思い出していた。
ああ、確かにこの人と、あの時間を共に過ごしたのだ。
過去は過去として閉じられていたわけではない。
それは時を超えて、今この場所に再び息を吹き返した。

そして話題は、現在彼が取り組む新たな技術課題へと移っていく。
正直に言えば、私はこの分野の実務からはもう離れて久しい。
議論に鋭さを欠いている自覚もある。
だが、求められていたのは「技術力」だけではなかったのだと、どこかで感じていた。
この再会の核心は、もっと深いところにある。

人は還暦を迎えても、縁に導かれ、何かを託されることがある。
私がすでに経営の前線を離れた身であっても、その方は、私を探してくれた。
その行為自体が、すでに一つの答えであり、問いである。

この出会いが何を意味しているのか、まだ言葉にはできない。
けれど、私はただ願っている──
彼のプロジェクトが、無事に実を結ぶことを。
私にできることがあるなら、それを惜しみなく差し出したい。
見返りなど求めてはいない。
ただ、この再会の意味を、自らの行いを通して知りたいのだ。

仏教では「縁起」という。
あらゆるものごとは、原因と条件があって生じる。
ならばこの再会もまた、過去の因が今この時の縁と結ばれた結果なのだろう。
再会は、時間の彼方から届いた一つの響きだ。
その響きが私の中にも、相手の中にも何かを目覚めさせた。

人生の後半に差し掛かった今、
私はようやく、こうした一つ一つの縁を、
かけがえのないものとして静かに受けとる準備ができてきた気がする。

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