ある中小企業の若手技術者が、大手企業へと旅立っていった。
アナログ技術を担うエンジニア──10年近く、熟練のシニアから手渡されてきた技術の系譜が、いまその手を離れる。
この出来事をきっかけに、私たちの問いは始まった。
技術は、残せるのか?
人は、いつか必ず去る。ならば、何を継ぎ、何を遺し、何を手放すのか?
かつて、会社は人に投資した。
だが今、ある企業はこう言う。「これからはシステムに投資する」と。
人は流動するが、システムは残る──それは確かに一つの“センス”ある選択に見える。
だが、それだけでよいのだろうか?
会議の記録、判断の痕跡、設計の理由──
LLMという新たな道具が、自然言語すら記録として使える今、私たちは「知のアーカイブ」を築きはじめている。
しかし、問いはここで深まる。
それでも、技術は属人的ではないか?
そこに思い出されたのは、民藝の世界だった。
見て、触れて、感じて、そして継がれる「手仕事」。
その技には、言葉では伝えきれぬ“美”が宿っている。
エレキギターやベースもそうだ。
同じ機材でも、誰が弾くかでまったく違う音が鳴る。
技術と感性と身体が重なるとき、そこに生まれるのは「音」ではなく「声」だ。
そう気づいたとき、問いは静かに形を変えた。
技術を残すとは、そこにある美を残すことなのではないか。
美とは、正確さではない。
「なぜそれを自分が大切だと感じたか」という、説明しがたい手応え。
それは数値や論理ではなく、共鳴によってのみ伝わるもの。
だからこそ、残したい技術とは、美と共鳴する技術であり、
それを継ぐとは、未来の誰かに「これは美しいと思わないか」と問いかけることなのだ。
その問いは、やがてもう一つの軸へと向かう。
カナダ・バンクーバーに住む仲間が、オンラインの集いでこう語った。
「今、必要なのは“人間力”だと思う。」
その言葉に誰かが応じる。
「それは、不確実な時代において、“自分を持ち続ける力”──つまり、決断する力のことだろう」
たしかに今は、誰もが判断の霧の中にいる。
AIが答えを提示し、情報が氾濫する時代だからこそ、
**「私は、こうしたい」**と決められる力が、試されている。
その決断には、技術ではなく感受性が、
正しさではなく美しさが必要だ。
中小企業に必要なものは、もはや「スキルセット」ではない。
問いを生きる人。
語り継ぐ人。
場を育てる人。
つまり、決断し、感じ、共鳴できる“人間”である。
この対話を通して、私たちは再び確かめたのだ。
未来とは、あらかじめ用意された道ではない。
それは、「美しいと感じたものを、次の誰かに渡したい」という静かな意志によって、
その場その場で灯される小さな灯火なのだと。
そして今、その灯は、あなたの手にある。