水のように、縁のままに

ときおり、言葉にすることさえ惜しくなるような「流れ」に出会うことがある。
それはまるで、山あいの雪解け水が音もなく谷をくだり、やがて川となって海に向かうような──
意志を持たずとも、確かな方向性を伴う自然な運びだ。

その流れに、久しぶりに身をゆだねている。

昨日、ある人と会った。
その人が長く勤める学校の近くにある、小さなカフェで。
約1時間ほど、静かに言葉を交わした。
互いの近況や、これからの歩みのこと。
とりたてて結論を急ぐでもなく、ただ流れるように対話が続いた。

その人とは、もう十年近くのつきあいになる。
かつて私は、その学校で非常勤として教壇に立っていたことがあり、
同僚の先生方とともに、彼が進めていた国際交流の取り組みを、企業側から支援していた時期があった。
学校と社会の接点をどう育むか──そんなことを、共に模索していた仲だ。

だからこそ、久しぶりの再会であっても、不思議な距離は感じなかった。
むしろ言葉の数が少ないぶん、過去の時間が静かに満ちてくるような感覚があった。

その人は、いくつかの国を旅し、いくつもの文化に身を置き、言葉と共に生きてきた。
ただ語学に長けているというのではなく、「言葉を通して、人と人のあいだにあるもの」を見つめてきた人だ。
長年にわたり教壇に立ち、若者たちの内なる声に耳を澄ませてきた。

そして今、その人の人生の次の章が、静かに始まろうとしている。

選択肢はいくつもあるという。けれど私には、
水が上流から下流へと流れるように、
すでにその道が決まっているかのように感じられる。
そこには力みも焦りもなく、ただ「そうである」ことの確かさだけがある。

ふと、仏教の言葉でいう「縁」という響きがよぎる。
与えられるもの、育まれるもの、そしてあるとき熟すもの。
出会いとは、偶然ではなく、深い因果の網の目の中で織りなされる出来事だ。

この出会いもまた、そうした縁のひとつだったのかもしれない。
導こうとするのではなく、ただ共に在りながら、
静かに流れゆく水の音に耳を澄ませていたい。

そして、もしその人が歩み出すなら──
きっとそれは、いくつもの人の未来にとって、
見えないところで水を湛える「恵みの源流」となるだろう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です