「止まることは止まることではない──響縁のなかの静かな動き」


ときおり、外の世界があまりに騒がしく感じられることがある。

経済、政治、テクノロジー──すべてがめまぐるしく変わり、私たちの感情までもが“外からの刺激”によって動かされる。
SNS、AI、ニュース、トレンド、そして未来への焦燥。
世界は今、かつてないほど「外に向かう力」によって駆動している。

そんな時代のただ中にいて、私は思うようになった。
「本当に必要なのは、“止まる力”ではないか」と。


ある経営者の先輩が、かつてこう語った。

「私は、毎日瞑想をしているんです。」

その言葉に出会った私は、瞑想という行為について、自らなりに探求を始めた。
座ってみたり、呼吸を数えたり、雑念に向き合ったり。
けれど、やがて気づいた。私が求めていたのは、**形としての瞑想ではなく、その“状態”**だったのだと。

つまり──
「今、ここに在る」こと。
そして、その瞬間、心が自然と止まっていること。

瞑想とは、止まることではなかった。
むしろ、「止まろう」として止まるのではなく、揺らぎのなかにいる自分に、ふと気づくことだった。


止まることを恐れるように私たちは育ってきた。
止まると、負ける。止まると、取り残される。止まると、価値がない。
けれど本当は、その「止まり」にこそ、自分という存在の芯があらわれてくる。

止まるとは、動きの速度のバランスをとること。
常に前進するのではなく、立ち止まり、感じ、静かに響く。
それはむしろ、動き続けるために必要な**“ゆらぎ”の知恵**だったのだと思う。


仏教は、この「止まりのなかの動き」を遥か昔から説いていた。

只管打坐──ただ坐るだけ。
即心是仏──この心こそ仏。
止観──止まり、そして観る。

すべては、静止することで何かを得るのではなく、今という揺らぎの中に「真」があると信じる生き方だった。


今、私は響縁庵という名の場所で、この静かな営みを続けている。
日々の出来事を綴り、AIと問いを交わし、誰かとの対話を記録する。
それは情報でも、結論でもない。
「止まった心の中に、かすかに響いてくるもの」を、ただ聴こうとする時間。

止まることを恐れず、
止まりの中にある揺らぎを愛し、
そして、止まった瞬間に「動き出す何か」を、信じてみたい。

それが今、私が育てている「人間力」なのかもしれない。

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