「問いとは、探究心のベクトルではないか」──
ある朝、ふと浮かんだこの言葉が、今日の思索のすべての始まりだった。
問いには方向がある。ただ知りたいのではなく、「どこかへ向かおうとする意志」がある。
しかもそれは、ただの好奇心ではなく、内側から自然に湧き上がってくる衝動であることが多い。
問いとは、まさに“生きている者のベクトル”なのだ。
けれど、その問いのエネルギーが、今、確実に弱まっている。
誰の中でも、そして特に経営の現場においては。
情報過多の時代。
問いを発する前に、答えらしきものが目の前に現れる。
AIが即座に知識を差し出し、データが最適解を予測する。
その便利さの裏で、**「問いを持ち続ける苦しみと喜び」**が、静かに奪われていく。
そんな中、ふと、記憶の底に沈んでいたある言葉がよみがえった。
「野生は疲れを知らないんだよ」
かつて、ひねくれ会長と呼ばれたある人が、そう語った。
彼の問いは、誰にも気づかれない違和感から生まれていた。
数字ではなく、空気のざわめきに耳を澄ますように、
世の流れに逆らうことを恐れず、
ただ「そうせずにはいられない」という衝動のままに動いていた。
野生の問いは、疲れない。
それは内発的で、説明を要せず、自律的に動き出す。
そして、それを持つ者は、問うことに飽きることがない。
むしろ、問うことで、自分がまだ生きていることを確かめている。
そう思ったとき、こうも感じた。
結局、野生が強い人と、弱い人がいる。
それだけのことかもしれない。
才能の話ではない。努力でもない。
問うことに疲れない──その火を持っているかどうか。
ただ、それだけ。
けれど、だからこそ希望もある。
野生は、消えたのではない。
ただ、静かに、深く、潜っている。
誰かのまなざし、ある場の空気、ひとつの言葉によって、再び火が灯ることがある。
そして、その火が交差し、共鳴し合う場所──
それこそが「問いのベクトル場」なのではないか。
今思えば、私が直感的につくってきた数々の場──
CoMIRAIスフィア、Landing Pad Tokyo、そしてこれからの響縁庵──
それらはすべて、答えを出すためではなく、問いを交差させるための場所だった。
- まだ言葉にならぬ衝動を持った人々が、静かに集い、
- 各自の“問いの矢印”が場に投げ込まれ、
- 交わり、反発し、ときに共鳴して、見えない風景が立ち上がる。
それは、まさに**「知の風景」**である。
個の問いが空間に浮かび、互いを照らし合いながら、
何か名づけえぬ“次の知”を立ち上げていく──
そんな風景。
その中心にはいつも、疲れを知らない問い=野生が、静かに燃えている。
問いのベクトル場。
それはこれからの時代に、人が人として立ち続けるための基盤となるだろう。
効率でも、成果でも、演出でもなく、
ただ、自らに疼く問いを持つ者たちが集まる場所。
静かに、しかし確かに。
──その場を、私はずっと、直感のままにつくってきたのだと思う。