VUCAを超えて──連続する無常の中で生きる

「これからの時代はVUCAだ」と、人は言う。
変動し、不確実で、複雑で、曖昧な世界。
その言葉は、現代を生きる私たちにとって、もはや当たり前の風景のようにすらなっている。

だが、私はこの言葉に、どこか静かな“あきらめ”の匂いを感じる。
「もはや何が起こるか分からない」
「未来は予測できない」
「だから仕方ない、受け入れるしかない」
──そんな声が、VUCAという四文字の奥に、ひそやかに潜んでいる。

その根底にあるのは、「不連続性」への恐れではないか。
昨日と今日は断絶している。
積み上げたものが、次の瞬間に崩れてしまうかもしれない。
その前提に立ったとき、人は「物語」を手放す。
何かを紡ぐよりも、壊れないように避けることへと心が傾く。

けれど、仏教は違う光を投げかけてくれる。
「諸行無常」──すべては変化し続ける。
けれどその変化は、バラバラな断絶ではなく、
無数の「縁」によって結ばれた、連続する流れの中にある。

すべての現象は「因」と「縁」によって生じ、また滅していく。
この一瞬も、無数の過去の出来事の結果として立ち現れている。
そしてこの一瞬が、次の瞬間への原因となっていく。

私は、今という時間を「点」ではなく「線」として捉えたい。
無常のなかにこそ、連続性がある。
それは、決して同じ形で続いていくという意味ではない。
むしろ、絶えず変化するからこそ、流れが生まれ、
流れがあるからこそ、意味が宿っていく。

私という存在もまた、その流れのなかにある。
「名づけえぬもの」として、今日も変わりつづけている。
科学者でもない、技術者でもない、経営者でもない──
けれど、問いを育み、縁に耳を澄ませ、
変化のなかにひとすじの響きを見出そうとする姿勢。
そこに私という“才”が、名もなく芽生えているのかもしれない。

変化を恐れるのではなく、変化とともに舞う。
断絶に怯えるのではなく、連続する無常を見つめる。
それが、VUCAを“超えて”生きるということだと、私は思う。

世界があいまいであるなら、自分の足元をより確かにする。
未来が不確かであるなら、今ここにある関係性に心を澄ます。
そして、定義を求めずとも、関係のなかで育ちゆく自らを信じていく。

それはまさに、仏が説いた“空”の世界──
執着を手放し、固定化を拒み、
それでも、いやそれだからこそ、
一瞬一瞬に、かけがえのない意味が宿っていく。

VUCAという言葉に、絶望ではなく希望を見出すために。
そのためにこそ、私は無常と共に生きていきたい。

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