いつからだろう。
私たちは、問いを抱えることをどこかで恐れるようになった。
わからないこと、曖昧なもの、ゆらぎ。
それらは「解決されるべきもの」として扱われ、
スマートフォンの検索窓の中で、「答え」へと還元されていく。
けれど、私は今、それらを“解かずにとどめておく力”──
ネガティヴ・ケイパビリティという言葉と向き合っている。
きっかけは、哲学者・谷川嘉浩氏の語りだった。
彼は、わからなさを抱える力の大切さを説く。
モヤモヤに意味を見出し、
それを個人の内面の態度や社会との関わり方として構造化する。
たしかに、その言葉には深い示唆がある。
けれど、どうしてだろう。
私の中には、どこか「交わらない」感覚が残り続けていた。
それは批判ではない。
むしろ、敬意の中に浮かぶ、うっすらとした違和感。
──なぜだろう。
答えは、私自身が「CoMIRAIスフィア」という場を、
直感的に作り続けてきたことにあった。
CoMIRAIスフィアは、問いを語る場ではない。
問いが、まだ名前を持たないまま、うっすらと“芽吹く”空間。
知識や主張が飛び交うのではなく、
誰かの息づかいと誰かの沈黙が、そっと重なる。
そこでは、「問いを語る人」が偉いのではなく、
「問いにとどまる関係性」こそが、灯となる。
そう、これは哲学ではなく、哲学工学なのだ。
言葉ではなく、問いの“発生条件”を設計する営み。
「使える」ように哲学を再構築するのではなく、
「使われてしまう前の問い」が生まれる場所を整えること。
だから、私は「響縁庵」という場所を夢見ている。
語り合うというより、響き合うための庵。
仮の住まいでありながら、誰かが深く問いを持ち帰れるような空間。
そこでは、問いは他者に届けるものではなく、
「ここでの」経験として静かに残っていく。
谷川氏の言葉が「わからなさの意味」を語るとすれば、
私は、「わからなさが立ち上がる空気圧」を守りたい。
それが、私にとっての哲学工学だ。
“考える力”を語るのではなく、“考えたくなる場”をつくること。
だから、わかったのだ。
私の違和感は間違っていなかった。
交わらないように見えたのではない。
交わる必要のない次元に、それぞれ立っていたのだ。
そして私は、ここでの灯を、これからも絶やさずに守りたい。
ここでの問い。
ここでの沈黙。
ここでの響き。
それが、私にとっての「哲学」なのだから。