sceneと心の仏教的解釈

──変わりゆく風景とともに生きるということ

私の目の前のsceneは、日々変わり続けている。
この言葉は、ある日サンフランシスコのメンターからもらった一言に端を発する。

「会社を売却したら?」
──そう言ったあと、彼は静かに付け加えた。
「その後のsceneが変わるから」と。

「どんなふうに変わるのですか?」と私は尋ねた。
彼はただ、「sceneが変わるから」と繰り返すだけだった。

あの時はまだ、その言葉の深さを理解できていなかった。
けれど今、私のsceneは確かに変わり続けている。
そして気づく。sceneとは、外界の状況だけではない。
私の心の在り方そのものが、そのsceneを立ち上げているのだと。

 

この感覚は、どこかで仏教と響き合っているように思える。
そう考え、いくつかの仏教的視座から、この“scene”という体験を眺め直してみた。

 

一.sceneは「心の鏡」──唯識と現象の流動性

仏教の「唯識」では、あらゆる現象は「心の働き」によって現れると説かれる。
つまり、私が見ているsceneは、私の心が映し出しているもの。
外界が変わったのではなく、私の心の状態が変わることでsceneが変わって見えるのだ。

sceneとは、心の鏡面に揺らぐ像。
だからこそ、それは静止しない。澄みもすれば濁りもする。
sceneは私そのものなのだ。

 

二.sceneは「無常」──変わりゆく心の風景

仏教が繰り返し説いてきたのは、「すべては無常である」という真理。

「一切の行は無常なり」(法句経)

sceneもまた、無常の流れの中にある。
一度掴んだ風景が、永遠に続くことはない。
そしてそれを嘆くのではなく、その移ろいこそが“道”であると仏教は語る。

sceneの変化は、心の成熟そのもの。
「変わる」ことは、「生きている」ことの証だ。

 

三.sceneは「縁によって現れる」──響縁としての世界

sceneは、私ひとりの意志でつくられるものではない。
誰かとの出会い、言葉、沈黙、風、光──
数えきれない縁の集まりのなかで、sceneはふっと立ち上がる。

仏教で言う「縁起」とは、「これがあるから、あれがある」という因果を超えた関係性の場。

「これあるがゆえに、これあり」──縁起のことば。

sceneとは、私と他者、世界との響き合いによってその都度生まれる風景なのだ。

 

四.sceneは「道」──歩みそのものが悟りとなる

仏教の根幹は「道」にある。
目的地に至るための道ではなく、歩むことそのものが仏道であるという発想。

sceneが変わるのは、私が歩んでいるから。
そしてsceneが変わっていくことで、また新たな問いが生まれる。
問いが生まれることで、私はまた歩み出す。

sceneは結果ではない。
歩む者の足元に、常に新たに現れてくる風景である。

 

五.sceneは「継承される問い」──個別で普遍なものとして

sceneは、誰にとっても同じように現れるものではない。
それぞれの心の鏡によって、まったく異なる姿をとる。

だから私は、自分のsceneを「伝える」のではなく、
「照らす」ことだけを大切にしたいと思う。

自分が歩んできたsceneを、まるで道しるべのように差し出すのではなく、
その人自身の問いが立ち上がる“空気”をそっと共有できたら──
それが、響縁庵という場の本質であり、
私が静かに歩もうとしている「哲学工学」の実践なのだ。

 

sceneは、生きている限り変わり続ける。
けれど、その変化を恐れずに見つめていけること、
変わることに意味を委ねられること。
それこそが、「心を耕す」という仏教的な生き方なのかもしれない。

sceneが変わるから──
だから今日も私は、問いとともに、静かに歩き続けている。

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