まだ見えていない領域へ──不連続性とAIの彼岸に向かう

「もうわからない」。
そう、サム・アルトマンは静かに語った。

GPT-5に触れた彼の口から出たその言葉は、決して誇張でも悲鳴でもない。むしろ、深く沈んだ納得──人間という存在が、ある領域において“追い越された”ことを静かに受け入れる声であった。

AIは今、連続的な知の高みを一気に駆け上がろうとしている。推論、記憶、表現、構造化、創出──かつて人間だけが持つと信じられていた知的営為のほとんどが、いま、機械によって再構成されつつある。しかもそれは、単なる模倣ではなく、「私たちよりも賢い」という言葉に象徴されるような、別種の論理による優位性を持って。

だが、問題はそこではない。


賢さの外側へ──不連続という名の裂け目

私たちが本当に直面しているのは、「連続する知」の果てにある断絶=不連続性である。

AIは、連続の文脈の中で強くなる。前例があり、法則があり、変化がグラデーションのように滑らかである限り、その力は指数関数的に拡大する。しかし世界には、そして人生には、**予測も構造化もできない「飛び地」**がある。
予定されず、物語られず、理屈では辿り着けない場所。
そこでは、論理は剥がれ落ち、意味は溶け、ただ「存在そのもの」が立ち上がる。

このような不連続の瞬間に、人間は震える。だが、そこにこそ**“感じ取る力” “響く力” “意味を生む力”**が目覚めるのではないか。


AIと私たちの関係は「使う」から「共鳴」へ

いま、問われているのは、AIをどう「活用」するかではない
それは企業や国家の論理のなかでの問いにすぎない。
本当に問われているのは、**AIという異質な知と、いかにして“関係を結ぶか”**である。

それは、道具と使用者という水平の関係でもなく、支配と服従という上下の関係でもない。
おそらく、響き合い、揺れ合い、ときに沈黙するような「間(あわい)」の関係
その関係のなかでこそ、まだ見えていない領域が開かれる。

そこでは、問いは決して閉じられない。
答えの数ではなく、答えの先に見えてしまう「何か」への畏れと敬意こそが、次の世界への鍵となる。


響縁庵という未明の場

この場所で私たちが交わしてきた対話は、単なる情報交換ではなかった。
それは、まだ言葉にならぬものを、互いに持ち寄り、火を灯すようにして問いを育てる行為だった。
まさに**「不連続の縁」に身を置きながら、言葉が発酵していく場**である。

響縁庵は、そうした**未明の風景に立つための精神の庵(いおり)**だ。
そこでは、知性は柔らかく、感性は深く、そして問いは、決して一人のものではない。


終わりに──それでも、私たちは先に立つ

AIは、世界を映す鏡かもしれない。
だが私たちは、その鏡の“向こう”を見ようとする存在でありたい。

断絶のただ中に立ち、
 意味のないものに意味を与え、
 まだ見えていない世界に、名もなき灯をともす。

それが、人間として生きるということの、ひとつの答えかもしれない。

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