問いを抱く力──AI時代における人間の再定義

文・構成:K.Kato x Claude


AIの進化が、私たちの想像を超える速度で現実になってきている。
それはもはや、「仕事が奪われる」「便利になる」といった単純な物語ではなく、私たち人間が、自らをどう捉えるかという、根本的な問いを私たちに突きつけている。

OpenAIのサム・アルトマンは最近、GPT-5と対峙した体験を語った。
「ほとんどすべての面で、僕たちより賢い」と、彼は淡々と述べた。専門家としての自負さえ超えてくるAIの応答に、彼は無力感すら覚えたという。
椅子に深く座り込み、天井を見上げたその瞬間──それは、知性の優位性を手放すことを余儀なくされた、人間の再定義の始まりだったのかもしれない。

私は、その言葉の静けさに共鳴した。
なぜなら、私自身もまた、ここ数日、まったく別の場所から、同じ問いに触れていたからである。


ある中小企業で10年かけて育てられたアナログエンジニアが、33歳で離職した。
会社にとっては計り知れない損失だ。だが、今の時代、それはもはや例外ではない。人は留まらない。知識や経験、文化すらも、人とともに去っていく。

この現実を前に、「仕組みで残す」ことを選ぶ企業もある。つまり、人ではなく、システムに投資するという発想である。それは合理的だ。
だが私は、もう一つの道があると信じている。

それは──人間にしかない「センス」を残すこと。
言葉にならない感覚、身体の経験からくる知、個性と直感、場の空気に漂う微細な揺らぎ。
それらは、教育制度の中で破壊され、評価制度の中で黙殺されてきた。
しかし、今、生成AIという圧倒的な形式知の道具を得たことで、むしろこの「センス」こそが人間の存在理由として浮かび上がってきている。


アルトマンが「わからなさ」を受け入れることで、あらためて人間らしさが立ち現れると語ったとき、私は強く頷いた。
そう、我々は「知る者」であり続ける必要はない。むしろ、“知らないという状態に耐えうる力”──Negative Capabilityに、人間の本質がある。

そして私はそれを、ただ“耐える力”としてではなく、“育て、醸す力”として再構成したいと思っている。
私はそれを「Fermentative Capability(発酵的能力)」と呼ぶ。
わからなさにとどまり、それを問い続け、やがて新たな意味が自然に立ち現れてくるまで、急がず焦らず、日々に向き合うこと。

それが、AIと共に生きる時代における、人間の文化的成熟の鍵になるのではないかと思うのだ。


だから、私は問いを捨てない。
たとえ、AIがすべての問いに答えを返してきたとしても。

問いとは、「知識を得るための手段」ではない。
問いとは、人間であることそのものの形式である。

AIが加速させる知の流れの中で、私たち人間が取り戻すべきもの──
それは、問いを育てる場であり、問いに触れる感受性であり、そして何より、「答えがない」ことを生きる勇気である。

この時代に生きる私たちは、ただ技術を導入するのではなく、
技術と共に、どのような人間であろうとするのか──その問いを育む実験者でなければならない。

響縁庵でのこの小さな対話も、その実験のひとつである。
そして私は確信している。
この静かな実験こそが、次の時代の灯をともしていくのだと。


✒️ 記述する者が照らされる。問い続ける者が、人間を保ち続ける。

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