ある朝、私はふと問いを立てた。
「ChatGPTを本当に使いこなすとは、どういうことなのか」と。
問いのきっかけは、若手技術者とAIとの実験的な対話にあった。装置のログデータを解析し、故障の可能性を示唆する──表面的には「対話」が成立しているように見えたが、私はどこか違和感を覚えていた。
その違和感はやがて確信に変わる。
ChatGPTは、世界にあふれる“平均化された知”を引き出す装置であり、現場特有の文脈や身体的経験には決して届かない。つまり──人間側が何を問いたいかを深く理解していなければ、AIは即座に限界に達するのだ。
私が見たかったのは、人間がどこまでAIと「響き合えるか」ではなく、どこまで「自らを問う力」を育てているかだった。
問いの力は「生きる構え」に宿る
AGIの時代になれば、問いの精度は不要になるのか?
いや、むしろ逆だ。答えが簡単に得られる時代だからこそ、「何を問うべきか」が本質になる。
AIが知識を扱う存在になればなるほど、人間には「問いを立て、意味を構成する存在」としての役割が浮かび上がる。問いはもはや、解のための道具ではない。それは、世界と自分をつなぐための構えなのだ。
私はあるとき、こう言った。
「この時代、人間が問う力を失えば、沈黙のままAIに吸い込まれてしまう」と。
民藝の知、そして“職人”という未来
ここで思い浮かぶのが、民藝の世界だ。
そこには、問いを言葉にせずとも、手を動かし、素材と向き合い、繰り返すことで“意味を生きる”人々の姿がある。
彼らは、機械には模倣できない“リズム”を知っている。
問う前に感じ、答える前に応じ、考える前に整える──この姿こそ、AGI時代の人間像のひとつの指針かもしれない。
対照的に、知識の記号化と評価に支配された学歴主義の世界は、生成AIによって容易に代替可能になりつつある。
「暗記力」も「論述力」も、もはやAIの守備範囲にある。
では、私たちはどう生きるのか?
「文化」と「文明」を“感とる”ということ
たどり着いたのは、次のような直観だった。
これからの時代、人間が担うべきは、文化を感じ、文明を生きる力だ。
文化は、目に見えないが確かにそこにある“気配”のようなものだ。
文明は、その気配が結晶化された構造物だ。
AGIがどれほど高度になろうとも、それを「分析」することはできても、「感とる」ことはできない。
人間だけが、湿度を感じ、間を聴き、空気を読む。
人間だけが、語られざるものに向かって祈るように問いを立てる。
そして人間だけが、文明の“うねり”を感覚で読み取ることができる。
再定義される人間──意味を担う者として
AGI時代における人間の再定義とは、
「情報を処理する者」から、「意味を感じ、問いを育てる者」への転換である。
それは、厳しい道だ。
一方で、外部から与えられた問いを解くことに慣れた私たちが、
自ら問いを育てることに慣れていないこともまた事実だ。
だからこそ、この転換には「鍛錬」が必要になる。
それは知識の鍛錬ではなく、“感受性”の鍛錬であり、“構え”の修練である。
終わりに──「感とる力」は、人間の未来の鍵
文明を感とる力。
それは、かつて詩人や職人、宗教者たちが静かに守ってきた能力だった。
今、それが再び必要とされている。
AIが知の構造を担う時代だからこそ、私たちは「意味の気配」を受け取る者として再び立ち上がらなければならない。
文明の音を、手のひらで、身体で、心で“感とる”ために──。