四十年ほど前、まだ若かった私に、ひとつの言葉が静かに差し込んできた。
琴を奏でる友人が、ある朝ふと語ったのだ。
「琴は、間が大事なの」
その言葉は、不思議と私の中に残り続けてきた。
音を奏でることよりも、音と音のあいだにある“間”こそが音楽を育てるのだという。
そのときは、どこか深く納得したようでいて、それでも完全には言葉にならず、ただ「何か大事なことを聞いた」とだけ思った。
そして今──四十年という時間を経て、あの言葉が再び、静かに私の思考の奥底から立ち上がってきている。
📖 ある仏教の偈(うた)との出会い
勝利からは怨みが起こる。敗れた人は苦しんで臥す。
勝敗を捨てて、やすらぎに帰した人は、安らかに臥す。
──『法句経』 第201偈
この言葉に出会ったとき、私はハッとした。
まさに今の世の中を射抜くような鋭さをもっていたからだ。
資本主義の構造のなかで、
勝つか負けるか──その二項対立の中に、私たちは無意識に生きている。
勝てば称賛され、負ければ沈黙する。
その構造が、怨みや苦しみ、分断や格差を生む。
私は、自らの人生のファーストハーフで、その価値観の只中にいた。
けれども今、セカンドハーフに入ってこの偈に出会ったとき、
そこには、かつて友人が語った「間」という言葉と同じ響きがあった。
「勝ち負けを超えて、ただ静かにある」──その感覚。
それこそが「やすらぎ」であり、
そしてそれは、日本の文化が古くから大切にしてきた「間」の思想そのものだった。
🇯🇵 「間」という日本的知性
「間」は、ただの空白ではない。
それは、関係の中に生まれる沈黙の響きであり、
主張を引き算することで初めて生まれる調和である。
茶室の静けさ、
書の余白、
能の所作、
琴の間合い──
すべてが、「語らないことで語る」文化であり、
そこには、仏教の「空(くう)」の哲学が静かに息づいている。
空とは、無ではない。
それは、「縁」によって成り立つ関係の場であり、
固定された実体がなく、変化し続ける可能性に満ちた空間なのだ。
そして「間」は、その空を人の営みの中に感じ取らせる構造としての工夫だったのだろう。
🤖 技術に「間」を宿せるか?
私は今、生成AIやロボティクスという技術と向き合っている。
それは、かつて私が生きていた“勝ち負け”の世界ともまた異なる、新しい構造の只中にある。
けれども、ふと思うのだ。
この技術に「間」を宿せないか?
この技術に「空」を響かせることはできないか?
AIが即答せず、問いを“留保”することで、人と共に考える間をつくる。
ロボットが俊敏に動くのではなく、あえて“遅れて”人に寄り添うように応じる。
UIがすべてを予測し尽くすのではなく、“迷い”という創造の余白を残す。
そんな、引くことで豊かになる技術の在り方が、日本から発信されることはできないだろうか。
🏯 響縁庵という「空の場」
私がつくろうとしている響縁庵は、「問うための場」であると同時に、
**間があるからこそ響きが生まれる“空の場”**である。
ここには、何も詰め込まない勇気がある。
ここでは、すぐに答えない自由がある。
そして、ここでは、40年前の言葉が再び甦るように、
記憶と技術、仏教と未来が、間(ま)を通して響き合う。
✍️ 結びに──空の技術、間の未来
すべてを語らず、
すべてを埋めず、
すべてを解かずにいることで、
そこに静かなる対話が生まれる。
空とは、欠けていることではない。
空とは、響きあう可能性の場である。
そして、技術がこの空を理解し始めたとき、
きっとそこには、新しいやすらぎの形が芽吹いている。
日本からはじまる、「間のテクノロジー」「空なるAI」の小さな実験。
その最初の音が、いま、静かに響きはじめている。