ある日──
もう20年近く前のことだろうか。
ひねくれ会長と、いつものように夙川駅近くのごく普通のチェーン系の居酒屋で、夕食を共にしていた。
特別な料理が出てくるわけではない。
店内の照明はやや明るく、テレビの音が少し騒がしかった記憶もある。
けれど、なぜかその場には、いつも静けさのようなものがあった。
「高級な食事や酒なんて、俺たちにはいらんのよ」
そう言って、ぬる燗を一口すすった会長の表情には、
**「もっと大事なものを、俺たちはすでに持っている」**という、声にならない確信が宿っていた。
あの頃の私は、ただその空気に身を委ねるように、
彼の言葉に耳を傾けていた。
会話というより、一緒に“何か”を味わっていた時間だったのかもしれない。
そしてその夜、ふとした間(ま)に、会長がぽつりと語った。
「Mankind is one」
それは、飾り気のない、簡素な言葉だった。
けれど今でも、その言葉の響きだけは、心の奥に残り続けている。
🌍 分断の時代に響く一言
私たちが生きている今の時代は、技術と情報がかつてない速さで行き交い、
世界中が「つながって」いるはずの時代だ。
しかし、そのつながりの速度や量が、
かえって人と人の“間”を遠ざけてしまってはいないだろうか。
国家と国家。
富める者と貧しき者。
AIを使う者と使われる者。
意見の異なる隣人、見えない誰か──
そのどれもが、壁のように立ちはだかっているように感じられる時がある。
だからこそ今、
あの時の「Mankind is one」という言葉が、
見えない糸のように、縁(えにし)をつなぎ直してくれているのかもしれない。
🪴 盆栽鉢に魅せられたイタリア人
昨日、あるテレビ番組で紹介されていた一人のイタリア人。
彼は日本の盆栽鉢に魅了され、その“何か”に導かれるようにして来日していた。
彼が惹かれたのは、形や装飾の美しさではない。
むしろ、そこに込められた「沈黙」「余白」「気配」のようなものだった。
それを見たとき、私は思った。
文化を越えても、人は“語らぬもの”に耳を澄ますことができる。
それこそが、「Mankind is one」の証明ではないだろうか。
🏯 響縁庵──“間”があるから縁が響く場
私がつくろうとしている「響縁庵」は、
問いを育て、余白を尊び、
すぐに答えを出さないことが許される場である。
豪華さも、派手さも、便利さもない。
けれど、誰かと静かに「ひとつの問いを囲む時間」がある。
それは、あの夙川の居酒屋での対話と、どこか響き合っている。
この庵では、異なる文化や言語に育った者たちが、
共に問い、迷い、黙り、微笑むことができる。
それこそが、縁が再び響くということなのだと思う。
🤖 技術と感性が出会い直すとき
私は今、生成AIやロボティクスという技術と向き合っている。
即答するAI、最適化されたUX、迅速に動くロボット。
しかし、ふと思うことがある。
この技術に、「間」や「空」を宿すことはできないだろうか?
たとえば──
- AIがすぐに答えず、「問いを留保する」ことで人と共に考える。
- ロボットが“あえて遅れて”応じ、人の心のリズムに寄り添う。
- インターフェースがすべてを予測し尽くすのではなく、“迷い”という余白を残す。
そんな、引き算によって豊かになる技術が、今こそ必要なのではないか。
✨ 結び──ひとつであるという信頼
「Mankind is one」
この言葉は、世界を同じ色に染め上げることではない。
それは、異なるままに響き合うことの可能性を信じる言葉だ。
互いの違いの中に、沈黙の中に、余白の中に、
共に生きていくことができるという信頼。
夙川の居酒屋で交わされた、ぬる燗とたわいない言葉たち。
そのすべてが、今の私の中で、技術と哲学と人間の未来をつなぐ対話になっている。
Mankind is one──人類はひとつ。
その響きは、今日も静かに、誰かの心の奥で鳴っている。