ある日、私はふと感じた。
『教行信証』を読んでいる。けれど、心がまだついてこない──と。
そのとき、私はどこかで自分を責めていたのかもしれない。
仏教の深遠な教えを前に、何か大切なことを受け取れずにいるような気がして。
けれど、この「ついてこない」という感覚は、ふとしたことで、別の意味を帯びて私の中に蘇った。
人間は自由の刑に処されている
──ジャン=ポール・サルトルの言葉が、不思議と私の内側に響いた。
意味は与えられていない。価値も、目的も、何も。
私たちは、自ら選び、自ら意味をつくり、自らの行為によって自らを定義しなければならない。
この厳しく孤独な構えに、かつての私は深く共鳴していた。
それはどこか、上座部仏教──小乗仏教的な、自らを律し、自らの煩悩を断ち、自らの力で悟りへ向かおうとする歩みにも似ていた。
だからこそ、サルトルの言葉が私に響いたのだ。
だが今、その言葉の余韻が残る中で、私はまた別の言葉と出会う。
「念仏申さば、仏、必ず来迎したまふと信じて申すなり。
されども、わが心のままには、念仏も申されず、信心も定まらず。」──親鸞
なんと正直な言葉だろう。
なんと、私のいまの心と似ていることだろう。
「信じきれない」「念仏すら心からとなえられない」──それでも、「申す」。
この言葉に私は、大乗仏教のひそやかな光を見た気がした。
自分の力でたどり着くのではなく、力が尽きたところに届いてくるはたらきがある。
自分の心がついてこないからこそ、他力の光がそっと差し込む余地がある。
そう思ったとき、私は少しだけ、「心がついてこない」という状態そのものが、祈りであるように思えた。
今、私はまだ小乗的な構えの中にいる。
自らの問いを立て、自らを律しようとしている。
けれど、きっとこれから、少しずつ大乗的な感受性──
響き合うこと、委ねること、共にあること、を受け入れる時が来る気がしている。
そしてその時、『教行信証』の言葉が、
今よりもっと深く、静かに私に語りかけてくれるかもしれない。
「読む」のではなく、「聞く」ように。
「学ぶ」のではなく、「ともに生きる」ように。
だから、いまはそれでいいのだ。
心がついてこないのなら、その「ついてこなさ」を抱えたまま、ページをめくればいい。
阿弥陀の光は、心が整った者ではなく、迷いの只中にいる者の背中を照らすという。
私は今、その光を知らず知らずのうちに浴びているのかもしれない。
──合掌