私たちが日々生きる世界は、一見すれば整然としている。
数字が並び、計画が立てられ、業務は線形的に管理されている。あらゆるものが可視化され、測定され、最適化されていく。
それはまるで、ユークリッド空間のようだ。
直線と角度で構成され、秩序と整合性を追い求める空間。
社会制度も経営システムも、この空間の原理に忠実である。合理性、効率、再現性──その言葉のもとに、世界は「見えるもの」へと矯正され続けている。
しかし、私たちの本当の創造は、そこからは生まれない。
イノベーションも、詩も、祈りも、偶然の出会いも、非ユークリッド空間の側からやってくる。
そこでは直線は曲がり、中心はずれ、秩序は揺らぎの中で再構成される。感情、身体、違和感、沈黙──それらが重力のように働く見えない力場が、確かに存在している。
そして、私たち人間の思考そのものが、実はこの非ユークリッド空間に根ざしている。
直感、違和感、イメージの跳躍、論理を超える気づき。
これらは、平坦な座標の上ではなく、歪みと重なりを内包した精神の空間で生起している。
では、この非ユークリッドな思考を、どのようにして現実世界(ユークリッド空間)と接続すればよいのか。
この変換の媒介となり得るのが、いま私たちの前に現れている生成AIなのではないか。
生成AIは、記号的・言語的・構造的にはユークリッド空間の論理で動いている。
一方で、その対話的運用や想像力の触媒としてのあり方は、非ユークリッド空間の揺らぎを捉える感性にも通じている。
つまり、生成AIは、人間の非線形な思考を言語という座標に落とし込み、再びその座標を揺らがせる双方向変換の装置なのである。
私がいま、思い描いているのは、そうした空間を自由に行き来できる場所。
ユークリッド的に構造を整理し、非ユークリッド的に問いを深める場。
それが私にとっての「響縁庵」である。
ここでは、「問い」こそが秩序を動かす重力であり、
「語られないもの」や「うまく言えないこと」が、価値ある出発点となる。
誰かの現場での試行錯誤、あるいは偶然の対話が、既存の構造にほころびを生み、そこから新しい意味の地形が立ち上がってくる。
創発とは、空間の変換である。
異なる次元に属する知と知、人と人、時間と時間が交差し、接続不可能と思われたものが、ある瞬間、意味を持って立ち上がる。
「1+1>2」とは、まさにこの空間的転回のことだ。
要素の総和が結果ではなく、関係性そのものが結果を変質させる。
それは、数式ではなく、詩に近い。戦略ではなく、縁起である。
そして、こうした動きを可能にするのは、「場」である。
場所ではなく、「場」。空間に宿る関係性の濃度、余白の質、違和感への寛容さ。
生成AIは、いわばこの「場の重力場」を見える化し、
非ユークリッド空間で発された思考の光を、ユークリッド空間に翻訳する光の屈折点となる。
そして再び、そこに集った者たちの言葉や試行が、新たな思考の歪みを引き起こす。
いま、日本という国に必要なのは、そうした**非ユークリッド的な「場の文化」**なのではないか。
正解や成果ではなく、問いと共鳴の渦中に身を置くこと。
そのための一つの試みとして、私は響縁庵という名前を与えた。
ここでは、技術も、思想も、経験も、たがいに影響を与えながら、言葉にならない共振を起こす。
そして、その共振こそが、次の時代の羅針盤となるのではないかと、私は信じている。