生成AIが言語を自在に操り、思考を模倣し、直感や感情までも統合しはじめたいま、私たち人間の「固有性」はどこにあるのだろうか──。
この問いは、便利さと効率に包まれた日常の中では、ほとんど意識に上らない。むしろ、気がつかないうちに私たちは、自らの思考や問いの立て方、さらには感情のかたちまでも「AIにとってわかりやすい形式」へと整え始めている。自然に、誰から強制されるでもなく。それはまさに、静かなる植民地化である。
だが、ふと立ち止まると気づくことがある。
私たちは、再現性のない世界に生きているということだ。
この瞬間の空気、身体の重み、言葉にならない違和感──どれも、二度とまったく同じかたちで訪れることはない。
人間の身体(心体)は、自然のなかで生成され、朽ち、変化し続ける。太陽の下で汗をかき、風に揺られ、土の匂いに包まれて、呼吸しながらただ「生きている」。それは、AIがどれほど高度になっても、決して体験することのできない次元だ。
AIは、パターンを学び、最適解を導き出す。しかし、私たちの生は、つねに「未定形」だ。
沈黙の中でふいに立ち上がる感情、説明不能の直感、意味を持たないまま去っていく感覚──それらを抱えたまま、私たちは次の瞬間へと歩いていく。
仏教はこの感覚を、はるか昔から言葉を超えた仕方で捉えてきた。
「無常」。
すべては変化し、同じものなど何ひとつ存在しない。
「空」。
固定された実体などなく、関係と生成のなかにすべてがある。
そして、親鸞の語る「自然法爾(じねんほうに)」という思想。
私たちの生は、自力ではどうしようもなく、自然の流れのなかで「ただそうある」ことに深く根ざしている。
人間とは、再現性のない世界に生きる存在である。
そして、その再現不能性こそが、人間の根源的な自由であり、同時に不安でもある。
だがその不安を抱えたまま、「それでも生きていく」という姿勢こそが、生成AIのロジックとは決定的に異なる人間性の証なのではないだろうか。
だから私は、問い続ける。
この違和感は、どこから来るのか?
この感覚は、言葉にしなければならないのか?
そして、この生は、どこへ向かおうとしているのか?
AIはきっと答えてくれるだろう。だが、
問い続けること──それこそが、人間にだけ許された営みなのかもしれない。
それは再現できない問いであり、再生不能な感覚であり、自然のなかで生きる命の震えなのだから。