つながりは消え、だからこそ響く──縁が導く静かな自由

 縁側に座っていると、ときおり風が通り抜けていく。
 その風は、どこから来たのかも、どこへ行くのかもわからない。
 でも、たしかに”通った”という感覚だけが、そっと残る──

 人との出会いも、問いも、感じ方も、すべてはそうした風のようなものかもしれない。
 つながりは、いつか消える。
 だが、だからこそ、その響きは深く、自由を孕む。

 便利さに満ちた社会のなかで、私たちはつい、永続性や成果、意味の明快さを求めてしまう。
 だが、ほんとうの縁は、そうした期待の外側でふいに立ち上がる。

 たとえば、たまたま交わされた挨拶。
 誰ともなく交わる視線。
 意図せず心が震えた言葉や音楽。

 それらはすべて、”終わり”を前提としている。
 出会った時点で、別れが内包されている。
 だからこそ、その一瞬にすべてを委ねるような集中と、切実さが宿るのだ。

 仏教はこれを、「縁起」「無常」「空」として、静かに語ってきた。
 すべてはつながっているが、どこにも固定された実体はない。
 生まれては消え、現れては去る。

 この”消えていく”ということを、ただの喪失とせず、”響き”として受け止める感性──
 それこそが、現代における人間性の最後の砦なのではないだろうか。

 AIは、つながりを計算できる。
 だが、消えていくものの”気配”を受け取ることはできない。
 そこには、身体と時間を生きる存在だけが持つ、微細な感受性がある。

 だから私は、縁側に座る。
 ただ風を感じ、誰ともなく心を開き、消えていく気配に耳を澄ます。

 つながりは消える。
 だが、響きは残る。
 そしてその響きの中に、私は静かな自由を見出すのだ。

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