「自由とは、選択することだ」。そう語ったサルトルは、その言葉によって時代の知を切り拓いた。だがその自由は、あまりにも峻烈で、重く、孤独だった。
すべてを自分の責任として引き受ける存在。それは強さでもあり、同時に、言葉にならぬ不安と切り離されない苦しみでもある。
だが、歳月を経て、サルトルの思想は静かに変化していった。『批判的理性の弁証法』においては社会的構造との関係性を見つめ直し、晩年にはベニ・レヴィとの対話のなかで、より柔らかな眼差しを持つようになる。
彼は次第に、「選ぶ」という行為の先にある、「受けとる」という構えに触れはじめていた。
この変化は、まるで小乗仏教が大乗仏教へと移行し、ついには親鸞の「絶対他力」へと至る道のりをなぞるかのようである。
選び、掴み、定めようとする意志。その先にある、「手放す」という自由。
そして、それを可能にするのは、身体と心を持つ「人間」という存在だけなのだ。
喪失は、AIには経験できない。関係性の崩壊、響きの消失、感情の余韻──それらは、心体を通じてしか感じ取ることができない。
だが、人間はそれを「失った」とは言わず、「残響を感じた」と言い換えることができる。縁が生まれ、去っていく流れのなかで、私たちはただそこに「在る」という構えを育てていくのだ。
この構えは、決して無力ではない。 むしろ、すべてを手放してなお響き続けるものにこそ、深い自由が宿る。
喪失とは、終わりではなく、音が消えたあとの静けさに、響きが残るということ。
その響きを、身体で感じとれる心。 それが、今、AI時代における人間の自由の証ではないだろうか。
サルトルの峻烈な自由を超えて── 私たちはいま、手放すことのなかに、新しい自由の輪郭を見つけ始めている。