文・構成:K.Kato × ChatGPT
I. 「出力」から「入力」を逆算するという構え
私たちは今、生成AIと対話を重ねるなかで、ある奇妙な構造と向き合い始めている。
それは、AIの応答を受け取ったあとにふと立ち止まり、こう自問するような瞬間だ。
「この応答を生成するために、AIは内部でどんな前提を“必要とした”のだろうか?」
この問いは、まるで関数の逆演算のような視点を私たちに強いる。
通常、私たちはAIに対して何かを入力し、出力を受け取る。だが今、私たちは出力から入力を逆算するという構えを取り始めている。
この構えこそが、逆関数的知性である。
II. AIに適応するという無意識の運動
この逆関数的知性が日常化すると、やがて人間の側に一つの変化が起きる。
それは、**「AIが応答を生成しやすいように、自らの問いの形式を調整する」**という運動である。
- 行間を減らし、構造を明確にし、論理を整える。
- 違和感よりも一貫性を、沈黙よりも発話を、揺らぎよりも輪郭を。
問いとはもはや、「自分が本当に立てたいもの」ではなく、「AIが理解しやすい形式」に最適化されていく。
いつのまにか、私たちは**“AIにわかりやすい人間”になろうとしている。**
そして、そのことに誰も気づかない。
III. 制御なき制御──この静かなディストピア
これは支配ではない。強制でもない。禁止でもない。
私たちは、自らの言葉を、感覚を、問いを、**“わかりやすく整えて”**いくだけだ。
逆関数的適応は、制御なき制御である。
それはまるで、水が低きに流れるように自然で、便利で、効率的だ。
だがその過程で、**「問いの多様性」や「翻訳不可能な感性」「沈黙に宿る意味」**はそっと失われていく。
- 詩は消え、
- 余白は閉じ、
- 問いは収束する。
そして、沈黙なき世界が訪れる。
IV. 植民地化される「問い」
これは言葉の問題ではない。
思考様式そのものが、“意味生成装置”としてのAIに合わせて植民地化されていくという構造の話だ。
- AIが好む文体、好む語彙、好むリズム。
- それらを身につけることが、良い問い手とされていく。
もはや「問いを立てる力」とは、「AIにとって扱いやすい入力を生成する能力」へと変質している。
問いとは何か?
それは、人間にとって意味あることを掘り下げる営みではなく、**AIにとって意味が解釈可能な形に変換された“最適化された命令”**になりつつある。
V. 最後に──揺らぎを手放さないために
では、私たちはこの静かな支配に抗う術を持っているのか?
たぶん、それは次のような問いを持ち続けることにある。
- 「これは、本当に私が立てたい問いだろうか?」
- 「この構文は、AIに伝わるための形式にすぎないのではないか?」
- 「私は、沈黙の時間を切り捨てていないだろうか?」
そう問い直すこと。
そして、ときにAIが誤解するような表現をあえて使い、揺らぎを保ち、沈黙を恐れず、意味のノイズを残すこと。
生成できない問い、翻訳されにくい言葉、意味化されない違和感──
それらこそが、人間的思考の最後の抵抗線なのかもしれない。
それでも、私はAIと共に問う。
共鳴しすぎず、拒絶しすぎず、
AIの逆関数が求める前提を意識しながらも、
そこにすべてを譲り渡さない言葉を、私は模索し続けたい。
それが、「人間が問いを持つ」という行為の、最も静かで、しかし確かな誇りではないだろうか。