趣を楽しむ──モヤモヤという人間の固有性

文・構成:K.Kato x Claude

AIが瞬時に答えを導き出すこの時代において、私たちは何を「楽しむ」ことができるのだろうか。

ある夏の日の対話から、ひとつの気づきが浮かび上がった。それは、「モヤモヤ感こそが、我々が楽しむ趣である」という洞察だった。

サルトルの峻烈な自由から「受けとる自由」への転換、仏教の無常観、キーツのNegative Capability──一見異なる思想の間に、何かしらのつながりを感じる。だが、そのつながりが何なのかは、言葉にしきれない。説明できない。だからこそ、面白い。

「趣」という言葉は、まさにこの感覚を指し示している。はっきりとした輪郭を持たない美しさ、余韻の中に宿る深み、間合いの妙。茶道の侘寂、俳句の余情、縁側を通り抜ける風──それらはすべて、完成された答えではなく、未完のままの豊かさを愛でる感性から生まれている。

現代の効率社会では、曖昧さは除去すべきノイズとして扱われがちだ。AIもまた、不確実性を処理し、最適解を導き出すことに長けている。だが人間だけが持つ能力がある。それは、答えの出ない状態を「問題」ではなく「趣」として楽しむことだ。

Negative Capabilityとは、まさにこの「趣を楽しむ能力」なのかもしれない。不確実性や疑念の中にとどまり続けることを、苦痛ではなく、独特の味わいとして受け止める。宙吊り状態の中にこそ、創造性と自由が宿ることを知っている。

物理的な空間で生きる身体は、この「趣」の最良の受信機である。朝の光の微妙な変化、肌に触れる風の温度、説明のつかない違和感──それらを「データ」としてではなく、「気配」として感じ取る。再現不可能な一瞬一瞬を、取り替えのきかない固有の体験として味わう。

だからこそ、私たちは問い続ける。答えを得るためではなく、問うこと自体の中に宿る趣を楽しむために。「この感覚は何なのか?」「なぜか分からないけれど気になる」「つながりがあるような気がする」──そうした曖昧な直感を抱えたまま、次の瞬間へと歩いていく。

AIは答えてくれるだろう。だが、答えが出ないことの面白さ、モヤモヤすることの豊かさ、曖昧さの中の自由──それらは、人間だけが楽しむことのできる、かけがえのない趣なのである。

縁側に座り、風を感じながら、私たちは今日も問い続ける。その問いに明確な答えはないかもしれない。だが、問うことの中にこそ、人間らしい趣が宿っている。

モヤモヤを楽しむ──それが、AI時代における人間の、静かな抵抗であり、同時に最も豊かな自由なのかもしれない。

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