都市が忘れたまち──東京で“見えない喪失”と向き合うために

ある若者と出会った。
彼は、地元・台東区のまちを守りたいという思いを胸に、朝日信用金庫から関東経済産業局に出向している33歳の金融マンだった。
彼の語りは静かだが、底に流れる危機感は、切実だった。

「小さな工房が、何の注目も浴びずに廃業していく。そして、その跡地には、何の縁もないマンションが建つ。
気づけば、まちが消えていく──誰に知られることもなく。」

東京で今、起きているのは、**「見えない喪失」**である。
それは地方での過疎や空き家のように、統計や行政の枠組みで把握できる種類のものではない。
むしろ、「ありふれた都市の日常」のなかに静かに埋もれ、見えなくなっていく。


地方では、課題が見える

塩尻や神山、真鶴、隠岐──
こうした地方では、廃業する工房も、空き家も、「まちの変化」としてあらわに現れる。
それを自分たちの問題として受け止める住民と、そこに入ってくる移住者が出会うとき、小さな再生の運動が生まれる。

  • 空き家がカフェになる
  • 廃校が学びの場になる
  • 役場が地域起業の相談窓口になる

課題は「まちのかたち」として見え、それをどう受け止めるか、が問われる。
だからこそ、行動が起こる余地がある。


東京では、課題が“見えない”

しかし、東京は違う。

  • ある日、銭湯が閉まる。
  • 工房が静かに消える。
  • 木造の町並みが更地になり、気づけば白いマンションが建っている。

「変わること」が当たり前すぎて、誰もそれが“喪失”だとは気づかない。

しかも、その“まち”に誰が住んでいて、誰がその風景を守ろうとしているのかも、わからない。
東京は人が多すぎて、地縁が希薄で、声を上げる場が分散していて、
誰かが「これはおかしい」と感じても、その声がどこにも届かない。

そして、かき消される。


それでも、感じ取れる人がいる

だが、それでも、感じ取っている人がいる。

それが、最前線でまちの融資や事業承継に向き合う金融機関の若手であり、
都市の余白に銭湯を開いた経営者であり、
何気ない風景の変化に胸がざわつく生活者である。

小杉湯原宿──あの銭湯は、まさにそうした人々の「感じ取った違和感」から始まっている。
マンションでも商業施設でもない、“都市の感覚神経”としての場所。
誰でも550円で入れ、ぼーっとできる空間。
それは、東京の都市空間が忘れていた「まちの感触」をそっと取り戻す試みだった。


「再開発」ではなく、「再縁」の都市へ

これから必要なのは、都市のまちを「再開発」することではない。
むしろ、断ち切られつつある縁を、もう一度**「再縁(さいえん)」すること**だ。

  • 工房と地域の未来をつなぐ
  • 銭湯と移住者、企業、学生が出会う
  • 信用金庫、行政、生活者が静かに協働する

それらはすべて、「都市の無感覚」に抗う静かな試みである。


終わりに──都市がまちを思い出すために

東京は、多くのものを抱え込んでいるが、
そのぶん、多くのものを“見失って”もいる。

いま、私たちにできるのは、
その「見えない喪失」を、見えるかたちで語ること。
かき消される声に、ことばを与えること。
そして、街が街として息づいていた頃の記憶──
それを、次の世代とともに紡ぎ直すことである。

それが、都市がまちを思い出すということなのかもしれない。

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