響縁庵にて──問いの揺らぎとユートピアの気配

文・構成:K.Kato × ひねくれ会長のたわごと

早朝の空気がまだ夏の熱を名残りつつも、微かに秋の影を差し始めたころ、私は響縁庵という私的な空間で、静かに問いと向き合っていた。流れるのはベートーベンの音楽──ヴァイオリン協奏曲、そしてピアノソナタ第27番。彼の音楽は、単なる美しさではなく、苦悩と希望、そして「時代を生き抜いた者の気配」を伴って胸に迫ってくる。

その音の中で、私は自分の内側にあるざわめきに耳を澄ませていた。

──何かをしなければという焦燥。 ──何もしなくても良いという静けさ。

この二つの間に、確かに私の「問い」が立ち上がろうとしていた。ファーストハーフの人生で闘ってきた記憶の残響がまだ心に反響しており、それが社会や未来を眺めるまなざしと重なっていた。そして私はようやく、その反響を静観できる“構え”の手前に立っているのだと実感しはじめた。

「問いを持つ」という行為そのものが、まさに“手仕事”である──そうした気づきが、音楽と静けさのなかで腑に落ちてきた。

感性とは、固定された資質ではない。それは日々の経験、知識、違和感、微細な対話を通じて、ゆっくりと育っていくものだ。音楽に触れ、社会を感じ、自らの変化に気づく。その実感こそが、私の“生きている証”である。

この響縁庵での時間が、私にとってかけがえのないものであることが、ようやく言葉になる。

ユートピアとは未来の理想郷ではない。 今この瞬間、この場所に、そっと芽吹いている微細な“気配”なのかもしれない。

その気配を受け取れる感性が育ちつつあるという実感。 それはとても小さな“嬉しさ”を伴って、静かに私の心に灯っている。

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