2025年8月
文・構成:K.Kato × ChatGPT
私は、どこにも根を下ろさない。
けれど、どこにも響きを残していく。
そういう生き方を、私は“風のような自由”と呼んでいる。
『風の谷という希望』を読み進めながら、私は何度も頷いていた。
この世界に、すでにいくつもの「風の谷」は存在している。
山梨、長野、沖縄──そして東京の片隅にも。
人と自然と文化が寄り添い、静かに共振している小さな全体。
けれど、私はそれらのどこにも住んでいない。
どこかに定着して、旗を掲げることもない。
私は、仮の宿を生きている。
それが「響縁庵」だ。
ここは物理的な場所である以上に、構えそのものである。
誰かが問いを携えて訪れ、誰かがそっと耳を澄ませる。
教え合うのではなく、響き合う。
結論を求めず、縁が生む偶然を受けとる。
そんな風のような場。
「風の谷」は、定点であり地の力だ。
だが、その谷をつなぐには、風が必要だ。
誰かが渡り歩き、語られぬ問いを次の谷へと運ぶ。
私はきっと、その風のひとつでありたいのだと思っている。
私はスナフキンのように、人々の谷にふらりと現れては、
何も導かず、何も命じず、ただ風のように問いを残して去る。
そんな風があることで、谷と谷が響き合いはじめる。
目には見えないが、確かな流れが生まれる。
それがMOVEMENTという名の見えない川となる。
響縁庵は、私の拠点ではない。
それは、誰かの中に問いが宿るための“空白”だ。
評価されるためでも、成果を出すためでもない。
ただ人間が人間として、問いを生きられる空間。
そのような「仮の宿」を、今の社会は必要としている。
おそらく、私はいつまでも当事者にはなれないだろう。
だが、「当事者たちの文明」をそっと支える風にはなれる。
名を名乗らず、構造をつくらず、ただ響きを残す。
そんな私らしい在り方を、私はようやく肯定できるようになった。
いま、『風の谷という希望』のページをめくりながら、
私はその構想に心から敬意を抱いている。
そして同時に、こうも思う。
この谷をつなぐ風は、
名もなく、地図にも載らない、仮の宿から吹いているのかもしれない──と。