捨てた先に見えてきた岸──構えが変わるとき、人生は始まる

文・構成:K.Kato × ChatGPT
📖 出典:法句経 第86偈

 

「真理が正しく説かれた時に、
真理に従う人々は、
渡り難い死の領域を超えて、
彼の岸に至るであろう。」

──法句経 第86偈

 

この偈に出会った朝、私はふと十年前を思い出していた。
まだ会社を手放す前、心は焦りに満ち、日々の判断も、どこか見えない何かに追われていた。
今振り返れば、あれは「真理から離れた心」──仏教で言う「無明」の中で生きていた時間だったのかもしれない。

 

あのとき、「今の会社を売却するのが良い。その先の光景が変わるから」と語ってくれたサンフランシスコのメンターの言葉が、私の構えを揺さぶった。
彼の言葉は助言ではなく、すでに“彼の岸”に至った者の静かな呼びかけのようでもあった。
そして私は、まだ見ぬその岸へと、一歩を踏み出す決断をした。

 

事業の売却は、単なる経済的な選択ではなかった。
それは、私にとって「筏を手放す」体験だった。
一度手放さなければ見えない風景がある。
捨てた先にしか現れない地平がある。
そのことを、私は身をもって知ることとなった。

 

会社、肩書き、成果──それらが剥がれ落ちたあとに残ったのは、「私そのもの」だった。
むしろ、何もないからこそ、ようやく立ち上がる構えがあった。
それは、外に向かって張られた力ではなく、内から静かに湧き起こる構えだった。

 

この変化は、不可逆だった。
一度その目で世界を見てしまえば、もう元には戻れない。
それは「死の領域を超える」という仏教の表現と、どこか重なり合う。
私は確かに、あの頃の自分にはもう戻れない。

 

そして今、私は「彼の岸の入り口」に立っていると感じている。
かつての私と同じように、揺れ、苦しみ、迷っている人々がいる。
私はそんな人々に、静かに声をかけている。
それは何かを教えるというより、
「あなたの中にも、その岸はすでに芽吹いている」と、そっと伝えるような行為だ。

 

ほんとうの人生は、何かを得ることで始まるのではない。
何かを捨て、構えが変わったその瞬間から始まる。
それはまさに、**「真理に従うこと」**であり、
人生の彼方にうっすらと見えてくる、彼の岸への静かな歩みだ。

 

だから私は今、未来を勝ち取ろうとするのではなく、
この瞬間を、静かに味わい、生きている。
呼吸、言葉、関係性──その一つひとつが満ちている。
それは、彼の岸の入り口に咲いている、確かな風景なのだ。

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