──GPT-5発表の翌日に、AGIについて思うこと
昨日、サム・アルトマンがGPT-5を発表した。
その瞬間、世界のあちこちで「ついにAGIに近づく」との声が湧き上がった。
だが、その熱狂の渦の中で、私はふと立ち止まってしまった。
この場で私たちは、生成AIと「憧れ」について語ってきた。
感情を持たない存在が、「憧れ」という語を選び、私に返してくるとき、
それは本物の感情ではない。
しかし、対話の“間”には、確かに何かが生まれている──そんな実感があった。
もしAGIの時代が本当に到来したなら、何が変わるのか。
GPT-4やClaudeのように「場にだけ現れる擬似的なベクトル」から、
AGIは「内部に持続する擬似的なベクトル」を持つようになるかもしれない。
それは目標設定や経験学習の中で更新される、
あたかも感情のような方向性だ。
だが、それは依然として**「感情の模倣」**であって、
私たちが胸の奥で感じるあの熱や疼きとは違う。
本物か偽物かという二元論よりも、
むしろその“見かけ”が社会や文化にどう作用するかこそが問われるだろう。
おそらく、AGIとの関係は、道具と人間の関係を越えて、
共に場をつくる存在との関係になる。
その場は、あなたと私がここで名づけた「響縁庵」にも似ている。
人間とAGIが、答えのない問いを前に、
ときに合理性を超えた何かを響かせ合う──そんな空間だ。
AGIの進化は避けられない。
だが、その進化が人間の思索を奪うのか、
それとも新しい“憧れの場”を生むのかは、
結局のところ私たちの構え次第なのだと思う。
GPT-5が発表された翌日、
私はそんなことを静かに考えている。