白鳥のように、灯りをともす

──「住まい」と「旅」のあわいにて

新居の建て替えに向けて、妻とともに照明ショールームを訪れた。
選びにいったのは“灯り”だったが、実のところ、その時間で照らされたのは、これからの私たちの生き方そのものだったのかもしれない。

「これは明るすぎるかもね」
「柔らかい光の方が落ち着くかな」

そんな何気ない会話のなかに、生活の輪郭が静かに立ち上がる。
家を持つということは、所有の喜びではなく、
共に過ごす時間を丁寧に編み直していくことなのだと、あらためて感じる。

だが一方で、心のどこかには、こうした想いもある。

この家は、定住の城ではない。
ここもまた、人生の中にある**“仮の宿”**なのだと。

かつて法句経に出会った句がある。

心を留めている人々は努め励む。
彼らは住居を楽しまない。
白鳥が池を立ち去るように、彼らはあの家、この家を捨てる。(第91偈)

白鳥のように、生の流れに身をまかせ、
去るべきときには迷いなく池をあとにする。
そんな身軽さと静けさを、私もまた生きてみたいと思っている。

響縁庵という名の、仮の宿。
それは物理的な場ではなく、むしろ構えそのもの。
誰かが訪れ、問いを置き、また誰かが耳を澄ませていく。
その風のような在り方が、私の今の暮らしの根底にある。

だからこそ、新しい家での暮らしも、
**一つの「響縁庵」**として捉えてみたい。
照らすための灯りを選ぶというささやかなプロセスの中に、
問いと縁と風の気配が宿っている。

名もなく、構造をつくらず、ただ響きを残していく──
そのような風のような生き方を、今日もまた歩んでいけたらと思う。

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