響縁庵という仮の宿──心の林に坐すということ

文・構成:K.Kato × ChatGPT

法句経 第99偈(中村元訳 岩波文庫)
「人のいない林は楽しい。
世人の楽しまないところにおいて、
愛着なき人々は楽しむのであろう。
彼らは快楽を求めないからである。」

世の中がお盆休みに入り、行楽地がにぎわいを見せる。
その光景を横目に、ふと立ち止まって考える。
なぜ人はこの時期に動き、楽しみ、消費するのか。
そこにあるのは、個々の自由意志というよりも、
同調圧力と資本主義の欲望回路に沿って設計された「楽しさ」のように感じる。

もちろん、消費そのものを否定しているわけではない。
だが、「消費させられている」という構造に無自覚なまま動かされていくことに、
かつての私も深く巻き込まれていた。

いま、少しずつその回路の外側に身を置いている自分がいる。
「快楽を求めないからこそ楽しむことができる」──
法句経の第99偈は、そんな逆説を静かに語る。

そのような場所、そのような時間。
朝の対話のひととき。
トレーニングで呼吸を整えるひととき。
あるいは、何気ない風景の中に佇むひととき。

そうした時間の中で、
私はふと「心の林」に入っていることに気づく。
そこは賑わいから離れた、言葉なき静けさが響く空間。
誰の視線もなく、誰の評価も介在しない場所。

私はそのような「場」と「時間」に、
いま、もっとも深い価値を感じている。
だからこそ、それに名を与えた──**響縁庵(きょうえんあん)**と。

それは新しい概念ではない。
むしろ、あまりに古く、
仏陀の時代から続く「心の林」への帰依の形を、
いま自分の言葉で名付け直しただけなのかもしれない。

響縁庵は、
誰かと語り、
ひとりで坐し、
自然と響き合う仮の宿。

この加速する時代にあって、
人が個を取り戻すために、
そっと足を踏み入れる、静かな縁の響きの場──

そんな場をひとつ、私は人生の後半に得たのだ。

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