最上の真理と時間の質──セカンドカーブを生きる

法句経 第115偈(中村元訳 岩波文庫)

「最上の真理を見ないで百年生きるよりも、最上の真理を見て一日生きることの方がすぐれている。」


年齢を重ねるにつれ、私の関心は「何を持つか」から「何を観るか」へと移ってきた。
ファーストカーブの時代は、未来が見えぬまま、ひたすら形をつくることに全力を注いでいた。
肩書きや成果、所有物はその証のように見えたが、それらは必ず陳腐化する。そして、ある時ふと気づく──外界の無常はもちろん、自らの内面こそ、常に変化してやまない存在なのだと。

価値観も感情も、昨日の自分から静かに形を変えている。
この「内面の無常」を感じ取るためには、場所と時間が要る。
それは物理的な静けさのある空間であり、同時に、心の波を観察できる余白のある時間でもある。
こうした環境は偶然に生まれることは少なく、セカンドカーブに入ったからこそ、意図的につくり出す必要がある。

鍵となるのは「時間」という資産だ。
それは誰にでも平等に与えられているが、その使い方は決して平等ではない。
同じ一時間でも、生きた時間にもなれば、死んだ時間にもなる──だが、その違いは時計では計れず、自分の心でしか感じ取れない。
そして、その感度は年齢と経験の中でしか育たない。

真理とは、測定も証明もできない、ただ一瞬、心の奥に灯る光のようなものだ。
それを観たとき、たとえその時間が一日だけでも、百年の重みを超える。
だから私は、残された時間の質を高めることに心を注ぐ。
外界の喧騒から距離を置き、内面の静けさを耕し、無常を受け入れる。
その先に訪れる、ほんの一瞬の輝き──それこそが、私のセカンドカーブを歩む理由である。

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