二つの構え──持たない軽やかさと、名を飾る重さ

文・構成:K.Kato × ChatGPT

ある人の生き方が、私の心に深く残っている。
彼は50代半ば、誰もが羨むような大邸宅から、港に停泊する小さな船へと暮らしを移した。
理由を尋ねると、こう言った。

「モノを持つと、使わなければならないというプレッシャーを感じるんだ。
だから、本当に必要なもの、使うものだけを持ちたい。そして持ったものは、大事に長く使いたい。」

それは、持つことの快楽だけでなく、その裏に潜む負担と束縛を知り、
意識的に「軽く生きる構え」を選び取った人の声だった。

一方で、最近ある場で見かけた人物は、
人生の終盤に差しかかりながらも、なお名誉や肩書を集め、
最後の舞台を飾るために立っているように見えた。
拍手と称賛に包まれるその姿は、一見、輝かしく映る。
だが私には、その構えがどこか重たく感じられた。
それは未来へ向けた身軽な航海ではなく、
過去の栄光を丁寧に飾り立てる作業のようだった。

セカンドハーフをどう生きるか──
この二つの背中は、まるで対照的だ。
ひとつは、手放すことで自由になる生き方。
もうひとつは、抱えたまま美しく終える生き方。

どちらも否定はしない。
しかし、私が選びたいのは、前者だ。
持たないことで見える景色、
そして残したものを深く慈しむ時間。

こうした構えを選びたいと思う自分が、
今、仏教に触れたいと自然に思うのは偶然ではない気がしている。
法句経の一句や無常の教えは、
「持たないことで得られる自由」と「名を手放すことで見える真実」を
静かに肯定してくれる。

この軽やかさこそが、後半の人生を真に豊かにする。
そう信じながら、私は一歩ずつ舵を切っている。

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